2011年11月17日木曜日

歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの「日本史」

歴史の中で語られてこなかったこと
―おんな・子供・老人からの「日本史」 
網野 善彦, 宮田 登

この本やばいです。今、まさに、考えさせられる「日本はなんでこんななのか」その問いの鍵が、書かれている。
書評というよりは、感想文なんですが、里山の多義性。「田」が中心の治水は豊臣、徳川以降に作られた、天皇を中心とした国家認識の普及と中央主導の国土管理の推進によるもの....である事とか、自由主義的歴史観(私たちが学校で学ぶ歴史)は「現在」を発展の最上として肯定する「発達の歴史」だけど、真実は数ある選択肢の1つを結果として「選んでしまった」にすぎない。....である事とか興味深いことが対談の形で書かれている。明治政府による、「律令体制の復活と西洋ナショナリズムを強引に結びつける政策」の大きな誤り。その時産まれた「国土意識」が、太平洋戦争を引き起こしたことについては、さらに、個人的に考えると、現在なお根強く残るその「意識」から今の放射能汚染への政府の取組みの根本的な間違いが浮かび上がる。
天皇は本来、小さな村の神官と同様の祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者」として、存在していたのに(まさに、天子であろう)国家的な権威(主権の置き所)として、明治政府に利用された。今も本質は変わらないと思う。天皇は国家、国民の「象徴」ではなく、祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者の首長」なのだ。明治政府は、元々「政」「教」分離を自然とやっていたこの国の、ちょうどローマ法王やダライラマにあたる立場の人を「無理矢理西洋的な国王」に仕立て上げ、政教合体をさせてしまった。その影響は今の憲法にまで、なごりがあって、国家の憲法で天皇を定義すること自体が「国王」としての認識であり、現在の「日本国憲法」は根本的な間違いを犯している。明治政府の愚行が、本来我々が持つ霊性(スピリット)の欠落を産み出す原因の1つであり、それは、今のも継続されてしまっているのだ。
さらにさかのぼれば、日本において政教分離の擁護を原始的ながら、明確に打ち出したのは平将門であり、平将門は敗退するものの、その考えは主流となる。そもそも、あれは、反乱の鎮圧ではなく、本来、東国は宗教的な帰順はしていたものの、「別の国家」であり、歴史の記述の誤りは、「征伐」とするところ、あれは「西国による東国の国家侵略戦争」であり、征伐ではない。そもそも大和朝廷は宗教的な恭順を求める、例えるならヨーロッパにおけるローマ教皇の存在であり、国家として日本列島が意識されたのは、豊臣、徳川が最初であり、それでも徳川幕府は連合国国家だった。200年かけて、独自の統一国家の体制確立を模索しつづけ、その確立の基盤に「天皇という宗教的存在」を置いた故に、明治政府による、「契約の無い、なし崩し的な、統一国家の実現」に利用された。国家形成の成り立ちそのものに、最初から、国権の意識が薄く、それが根本原因で、現在においても「主権」と称されるものが、借り物というか「絵に描いた餅」の様になってしまう原因がある。逆に、明治政府が断行した、天皇主権が国家形成の基本にあるなら、日本国憲法は記述の改正と共に、「天皇」は「国民」への主権の禅譲をするところからやり直さねばならない。それが、現在の官僚支配の根本原因でもあるからだ。孝明天皇いわく「官位昇進の宣下をしたのは誰か」という話である。そもそも官位とは何か?日本国政府(その官位保持者)は天皇制を精神的にを僭称し、政教ごちゃまぜにして、我が国を支配している。
日本国憲法記述の国民主権を実のあるものにするには、官位任命権は主権者であり、実質上の国権所有者である我々が行うものであり、「象徴」の記述、及び、官位の存在の仕方そのものの誤りを正さないとだめだと思う。「官位」の廃止をするか、あるいは主権の完全移譲を行い、我々が官位任命者(極端に言えば皆が天皇にならないと)ならない。現実的には、「象徴」の記述を外し、省庁を名称から廃止し、別名で再編。「官位」という考え方を全て政治から切り離し、宗教(天皇)側へ戻す方が現実的だ。日本の「官僚制度」の成り立ちが、明治憲法、現日本国憲法を股がって存在する以上、孝明天皇も危惧した、伊藤博文による、「天皇側の制度の傀儡利用」を成り立ちの基本とするわけだから、そんな無礼な制度は変えねばだめだと思う。天皇は国王ではない。過去に国王を自ら称したのは、平将門と豊臣秀吉だけだ。

 アイヌや沖縄を除いて概念化された、「日本」という存在。南や北にいけば行く程曖昧化する概念であり、実際、国境ですら南端と北端では曖昧である。我々は本当に「国家」なのだろうか?元々、独自な「国家を指向しない民」(実際、農民という帰属の概念は曖昧で、強引な代物だし)で成立つ、不思議の島、日本列島。様々な生活の営みをする、部族間の相互契約で成立って来た、非中央集権的な民族(歴史において語られるのは上辺なのだ)鎖国以外に国家の「態(てい)」を維持する方法が無いほど、海に無限の広がりや繋がりを民レベルで持っていた。本来が自由な人々の島。鳥居は海に向けられている。あれは、灯台ではないのか?定住ではなく、Home Town、ただ、帰る町として、アジアの様々な多民族が共同で愛した島。日本列島。見えて来る日本列島のイメージはものすごく巨大で、それでいて、とても慎ましいものだ。アメリカや中国とは全然異なる、多民族性を持っている。そりゃ、アメリカさんや、中国さんには脅威に映るかもしんないねえ。





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