2011年11月28日月曜日

「金」奉る国。




ドイツかどっかで、お金を使わないで暮らす実験(?)してる人がいたけど、netや携帯使うだけで、お金使うことになるから、それも、使わないんだろうかと思う。労働や物の「物物交換」では暮らせても、その土台には、勝手にお金使うシステムが暮らしの構造土台になってるから、間接的には使わざるを得ない。労働の対価で、どこかに泊めてもらえても、その、泊めてもらう先は、その構造の中にいるから、お金使って、家に住み、光熱費払い、Networkにも金を払っている。これは、変な話。浮浪者ですら、もらったものであれ、拾ったものであれ、お金使わないと生きていけないのである。

ところで、かつて、お米というのは、律令体制以降の、「宗教と秩序」の国内普及のために、天皇制(大和秩序)手動で始まったことでは、あるけど、交換の媒介に、お金ではなく、「お米」をおいた(石高制度という独自の経済構造)は、世界でも珍しい考え方で、おもしろいとは思う。このルールに同意した様々な生活形態の人達(コミュニティ)が契約により天皇制(大和秩序)に属して(歴史に言う被支配とは少し違う、主権を委ねたというよりは、ルールを受け入れただけ)この国(?)は成立していったのだ。そもそも、農民はイコール百姓ではなく、税金は対価交換として、様々な生産物や、収穫物が、「米」と交換されるしくみはユニークで、実を伴い、各地で受け入れられていった。流通の促進そのものが「米」を中心としていたのだ。であるから、米は一時期、完全に貨幣となる部分と、同時に、庇護や社稷を奉るための、捧物の両方の意味合いを持っていた。争いを避け、庇護を受けつつ、様々な恵みを物物交換するための、大切な媒介であった。だから、日本が稲作を中心とする文化であるとするのは、間違いで、元々、様々な多様な生活形態や豊かなで高度な商工業従事者が沢山いる柔軟な都市文化を各地に持つ多民族列島であり、その流通、経済的媒介、宗教(というよりはある種の契約)のために、米を使う人々の島なのだ。とは言え、2000年の歴史において、前半、1000年は東北を中心とする、東日本は、大和体制(西日本国家)に所属すらもしておらず、稲作中心の価値構造すら無かったのだ。米以外の農耕と漁業、狩猟、商業を中心とした生活を築いていた。このくにの歴史の半分は東西2つの国で、できていたのは、昨今の学会では常識であるにもかかわらず、歴史教育ではそいう、認識は伝えられていない。完全に文化も生活形態も違う、2つの国のせめぎ合い(最初は武力的な争い、のちに交渉、契約による、平和的な帰属)そのものが、日本列島の歴史の本質なのだ。秀吉は西南制圧を統治の主軸に考えていたのに対し、家康は従来の大和体制の主願である、東北制圧を統治の主軸に考えていたため、征夷大将軍として、江戸に幕府を開いたのである。征夷の「夷」とは東北の国であり、秀吉路線が継続されれば、征明大将軍とか置いて、唐津に幕府を開いたかもしれないのだ。
先ほど2つと書いたけど、厳密には5つの異民族(大和でない国)のせめぎ合いかもしれない。沖縄、九州(一部中国四国)、大和、東北、北海道の5つ。明治維新はこの基本を念頭におくと、別の見え方がしてくる。あの維新の中心になった国は大和ではない九州(一部中国四国)の勢力であり、傀儡的に(大和秩序)を利用しつつ、近代国家を「でっちあげた」のだ。例えるなら、漢民族でない中国王朝に少し似ている。逆に、あの時制圧された、東日本の諸藩こそが、東日本支配のために出張統治をしていた、大和の武士達の藩であった。朝鮮侵略統治や、満州国のでっち上げなどには、徳川幕府(誓約による大和政権)ではなく、明治政府(傀儡による大和政権)の西南制圧の色合いが濃く反映されていた。

権威や体制の歴史はそんな感じだけど、そもそもが多種多様な種族の集まりである、この国の豊な文化や人々が大好きだ。ただ、政治的には、今だ、根の部分で、傀儡大和(明治政府)の名残による、支配的な東北政策(本来の征夷意識にプラス、オリジナル大和武士達への傀儡官軍による差別)があるような気がして、権威や体制の歴史を見る上では、正しい歴史認識が必要かと思う。出張統治をしていた大和武士達は、単に東北を支配するのではなく、契約による「夷」の人達と融和を試みてきた歴史があり、文化の融合と、大規模な開墾、治水事業、広大な水田と品種改良、などの努力を重ね、稲作地帯を創ることで、東日本を豊かな恵みある土地に変え、完全に和としながらも、維新当時は大和への忠誠を他のどの地域より強く維持していたのだ。
明治維新を押し進めた、九州(一部中国四国)の人々の中にも、多種多様な種族の集まりであるこの列島を強く認識している人達もたくさんいた。そういう人達の理想は、傀儡大和ではなかったのだけど、明治政府成立の過程で、変質したり、淘汰されたりしてしまった。それは、早急な近代国家化実現を優先する判断による部分も多いのだけど、その結果、歪んだ西洋化であったり、やや強引な統一国家化となってしまい、その弊害は現在にまで尾を引いているのだ。
本来、大和秩序(天皇制)とは「稲を実りの中心として奉る社会構造」そのものを信望し教義の中心とする宗教(宗教言えるかもよくわからないが)であったのだ。そしてこの列島の人々は、その、「社会構造のコンセプト」を受け入れ、それぞれの古くからの信仰は守りつつも、共存の文化を形成していったのだ。傀儡大和は近代化にあたり、単なる貨幣制度では無かった石高制度(実は大和という文化や価値観そのもの)を廃し、強引な貨幣経済化を押し進めたのである。明治政府成立にあたり、その「実」を失ってしまった傀儡大和の形骸化した天皇は、個人的には天皇ですら無いと思う。そして、今も、この傀儡大和が、この国の官僚制度と経済構造の土台を形成しているのだ。その結果、我々は「米」に取って代わった「貨幣」を奉る、世にも恐ろしい民と化している。

0 件のコメント: