2011年11月20日日曜日

殺しの掟〜「宴」と「政」〜


「お膳」というのが、ある。日本では何をやるでも、この「お膳」が立ってないと、日本ではクラブイベントでも、人も入らないし、踊りもしない。「お膳」は日本の文化だから、善し悪しは無いのだけど、自分にはどうも不向きなところがある。特に音楽の場合はそうだ。メインに対してつけ添えのように組まれていく、音楽。なんだかな~と、思う。自分でイベントやるんでも、そういう「お膳」な組み方を避ける。そうすると、明確なイベントになんないので、人が入らない。「お膳」は年功や知名度などの序列がしっかりしてるので、「実」は音楽の内容よりは、「お膳」の組み方が、イベントの主旨になる。当然ギャラなどの「お金のかけ方」もそれが中心となる。解りやすいし、安定感があるので、お客さんは、各ジャンルの松竹梅を一目で見分ける。日本の文化だから、それはそれでいいのだけど、自分はそういうコンビニエンスな、パーティよりも、同じ日本の文化なら、亭主のらしさが滲み出る、寿司屋や、小料理屋なイベントの方が好きだったりもする。
「お膳」はOne Wayに見えて、その実はOne Wayではない。5皿料理みたいな感じで、西洋料理のコースでもない。引立てがしっかりしてるので、解りやすく、「お膳」を頂く「お客様」は思考や参画はせずに、与えられた「お膳」をおいしく頂く(楽しむ、踊る)のだ。自分は意外性の無いものや、予定調和があまり好きではないので、「お膳の見立て」(フラーヤー)を見ただけで、なんか味の創造がつくものは、どんなに有名なお料理が並んでいても、あんまし興味が惹かれないのだ。でも「お膳」が全て嫌いなわけでもない。旅行などは、若い人の嫌がる添乗員同行型のプランなどは、その、「お膳」にあたるわけだけど、あれは素晴らしい。日本人の余暇意識(独自のバカンス感覚)を熟知した、無駄の無い「おもてなし」を見立てるからだ。目的が明確に「余暇」にあるなら、個人旅行よりは以外と、有意義な「お膳」だ。目的が余暇に無いのであれば、当然、個人旅行を選ぶ。意外性や出会い、探し物がある時などは、特にそうだ。日本の週末の過ごし方も「日本的な余暇」をメインとするなら、数ある、様々なグレードの添乗員同行型の「お膳」なクラブイベントで十分なんだろうと思う。でも、そこには自分の場合、「意外性」も「出会い」もましてや「探し物(音楽)」などは求めるべくもない。

「お膳立て」というのを辞書で見ると、準備 ・ 用意 ・ 段取り(をととのえる) ・ 先回りする ・ 早手回しに ・ 手筈(てはず)がととのう ・ (必需品を)取り揃える ・ 手順をととのえる ・ アレンジする ・ 体裁(ていさい)をととのえる ・ しつらえる ・ 支度する ・ 「(それで)格好がつく」 ・ (成功を)アシストする ・ 演出する。とある。けして悪い言葉ではない。むしろ何事をするでも、催し物をうまく成功させるには重要なことであることが解る。クラブイベントであればそれに参加する主催者、アーティスト、お客さんが、皆、満足するためのは、むしろ必要不可欠なことに思える。では見方を変えて、政策などの「お膳立て」の意味を見ると、レールを敷く ・ 根回し ・ (~のための)地ならし ・ 環境づくり ・ (水面下での)工作 ・ 下準備 ・ (~のための)道をつける ・ 土台を作る ・ (~の)舞台装置を用意する ・ (~を)セットアップする ・ 受け皿を用意する ・ 下地を作る ・ 布石を打つ ・ (~するよう)仕向ける。とある。政策の実現というのが、目的の実現であることが伺い知れる。ここでやはり気になるのは、「膳を立てる」という事が、目的の実現ありきという部分だ。「何の問題があるのか?」と問われるかもしれない。「何をするでも、目的は重要ではないか」と。自分が気になるのは、「目的の実現」の目的の部分なのだ。どのような「目的」であれ、「お膳立て」をすれば目的は実現するように思えるからである。そもそも、「宴」は自由意志により、自然に立ちおこる物である。「お膳立て」を必要とするものは、目的が自由意志が集まって発生する「宴」そのものではなく「場」の維持である。やりたい事を継続するために必要なのは、「場」の維持であり、パーティそのものの存在だ。「宴」がより「式」と化していくのである。「儀式」と言ってもいいかもしれない。これは個人的な意見なのだが、政もクラブイベントも、この「お膳立て」が過ぎると、より儀式化していくのだ。先程の旅行の話だが、「お膳立て」のしっかりした添乗員同行型の旅行ほど、「もてなし」は充実するが、「お膳立て」のしっかりすればするほど、個人の旅行への意思や趣向はおざなりにされる。かつてバブル時代には、クラブ(当時はディスコ)も、箱自体が、2~3年おきに出来ては、閉めていた。これは、集客が悪くてそうされていたわけでは無い。最初から、「宴」を目的とする、運営者達が、不動産の契約を意図的に経営の範囲としていたからだ。だが、クラブやイベントも、とかく最近は長寿継続がもてはたされる。アーティスト個人の長寿継続は別に問題はない。だが、「宴」であるパーティや箱、あるいはバンドとかはどうなのだろうか?バンドなどは、より個人のアーティスト的特性が強い集まりであれば、そんなに問題は無い。全体で一つの音。宴では無いからだ。だが、目的が「宴」でなければ、バンドの活動も長期化する。儀式化し、その「宴」以外の目的のために「儀式」は継続されるのだ。音楽を演奏する上で、「宴」以外の目的とは何か?それは「収益」である。
「政」や公的な物も、その目的は本来、短期的なものであるはずだ。だから、民主国家では、2~4年で政権は交代していく。だが、それが損なわれる様な箇所(あるいは部署、省庁でもいい)「場」としてその目的が、「継続」に変わった存在は、目的そのものが、変質し、「収益の維持」のための「儀式」の運営に変わっていってしまうのだ。それは、もはや「政」ではない。「場に所属する者達だけ」の「収益を維持するための儀式」となってしまうのだ。

水濁るところには「宴」も「政」も存在しないのだ。そこにあるのは形骸化した「儀式化した異物」だけが存在する。

だが、「儀式」というものがが本来持つ目的とは、「収益」では無いのだ。それは「死の肯定」なのである。正確には「禊」であるべきなのだ。つまり、「収益」を目的として、儀式化したものは、「儀式」ですら無いのだ。「宴」や「政」は生産を軸としていない。つまり具体的な何かを産み出す存在ではなく、生産を軸とするものを、活性化させるための存在なはずである。であれば、儀式化した、それらは、何をも産み出さず、何をも活性させない、にもかかわらず存在する「収益のためのコミュニティ」にすぎない。
神聖なる「忌むべく禊」でもないのだ。恐ろしいことにそれらは「生の肯定」を顔に持つ。それは「死の肯定」をしない禊。忌むにもすら値しない存在ではないだろうか?

アメリカのロックバンド、グレイトフルデッドは「儀式」の意味を正確に把握していたように思える。
彼らのコンセプトは「宴」で始まり、「儀式」に収束していくその過程そのものであった。
バンド名は「葬儀屋」なのである。その実の部分に「収益」があったとしても、
彼らは、その葛藤そのものをバンド名に掲げ、パーティを長寿化させてきた。

クラブシーンの活性化には、やはり、儀式化した「収益のコミュニティ」に音楽的な銃の引き金を引く。
「殺し屋」が必要なのかもしれない。
レゲエのサウンドやアーティストが名前や曲名で使う、murderやKillarて、なんかそういう
仁義というか、映画の「殺しの掟」みたいな感じがして、いいなあ、と、思う。


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