2011年9月2日金曜日

サイエンスフィクション

秋です。まず、冒頭にもの凄い発言。「最近のダンスホールレゲエ好きの若い男どもは、まるで、女の娘みたいだ、1人1人はまるで夢見る乙女。集団でつるみ、精神的に互いに牽制し合い、おまえら女子校生の仲良しグループか!つうか、肉体はいざシランが、心がバティマンだ。バティマンコミュ。申し訳ないが、バティマンはディスらしてもらいます。」てなことを書くと、なんか凄いマジに取られるんだろーなー。そんで、女子校生仲良しグループ的な攻撃を受けるわけです。今の発言、特定の誰をも指していません。言うなれば、空想かもしれない。実地検証に元ずく空想だから、サイエンスフィクションだ。バティマンが駄目なら平和な箱入り娘。まさにハーコーインザギャルゾンビ。こういう空想の自由が蝕まれるのが、女子校生仲良しグループだ。
「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。こうなると、もうわけがわかんない。「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、こんな言い方はしません。話が逸れましたが、本題。


サイエンスフィクション。空想科学物語のことだ。去年の話題だけど、車椅子の理論物理学者スティーブン・ホーキング氏が著作、「グランドデザイン」で「宇宙誕生に神は必要無い」と発言した事に対し、ローマ法王ベネティクト16世は昨年、10月28日の法王庁科学アカデミーでの講演で、間接的な反論を展開。「宇宙は神の創造物である」ことを明言した。話の流れとしては、科学の役割は神の存在を明らかにすることにもあると指摘。「科学者は世界を創造しているわけではなく、それについて学び、まねようとしている」とした。 さらに、科学者の役割は普遍の法則を創造することではなく観察することにあると強調、そこから導き出される結論として「人間ではない全能の知恵が存在し、それが世界を支えていることを認めざるを得ない」一方で科学についての理解も示し、科学と科学者の功績をたたえた。緩やかな論争というか対決だけど、最初に賽を振ったのはホーキング博士。「神」という言葉を著作に持ち出した時点からややこしくなった。ホーキング博士が「神」を語るということは、もう、それ自体が「空想」の領域だからだ。彼は理論物理学者だから、神を語る部分は否定であれ、肯定であれ、サイエンスフィクションということになる。彼の立場からすれば、である。彼が「無い」というのは空想上「無い」のであり、仮に「いる」と言ったって空想上「いる」のだ。しかし、考えの立場が違えばそうはとらえられない。教会にとっては「神」は唯一の現実であり、科学者による、宇宙や現象の概念化、名称化こそが「空想」であるからだ。
でもアジア人である自分が見ると、見方はまた変わってくる。「人間ではない全能の知恵が存在し、 それが世界を支えていることを認めざるを得ない」(ローマ法王)でも全能で全知であるというこは、無能で無垢であるというのと同じ様な気がする。始まりと終わりの間に時間を作り、概念を置くことはナンセンスなのかもしれない。アジア人の自分には。神の存在を立証する行為は、神の不在を認めるのと同じ行為に思える。人間は言葉や概念を形にするとき、「始まり」を創り、「終わり」を創り、「時間」を創り、「善悪」を作った。でもそれら全ては言い方にすぎない。その結果、理屈抜きで明らかな無様まで、「善の様(おれは悪く無い)」と言える構造ができてしまう。合法の「法」が利用され、酷い結果を生む場合などは、まさに最たるものだ。「恩着せがましい」とはよくいったものだ、恩は売り買いするもんではないから、たとえば、この言い分、最近の原発事故について「皆様の生活を支えてきた電力会社はなにも『悪』くありません。(あるいは悪意はありません)想定外の天災なんです。」ええ、悪いとは思いません。でも、善いとも思いません。だって、そもそも、自分が無知、無垢の赤子で生まれて、このかた、その「皆様の生活」とやらを選択する権利も、機会もはじめから持たされて無いのであるから。「宇宙誕生に神が必要ない」というホーキングさんに、ローマ法王はこう言うべきだったのだ、「神は自らをお創りにはなられません」。そしたらホーキングさんはこう返すかもしれん「それでは法王は、宇宙は神だ。とおっしゃるんですね?」ローマ法王は静かに微笑みをたたえながら「いえ、そうではありません、あなた方が宇宙を『宇宙である』としているように、わたしたちは神を『神である』としているだけですよ。」←このやりとりは自分の空想ですが。


自分が危惧を感じるのはローマ法王ベネディクト16世がローマ法王庁科学アカデミーでの講演で「宇宙は神の創造物である」と明言したことそのものにである。神が絶対か絶対でないか、科学が万能か万能で無いか、はどうでもいい。この言い切りは、2000年に及ぶキリスト教徒の深淵なる心の対話を全て危うくするような傲慢さを秘めている。さらに、「科学の役割は神の存在を明らかにすることにもある」「科学者は世界を創造しているわけではなく、 それについて学び、まねようとしている」という発言には、アジア人として西洋文明そのものに危惧と終焉の示唆を感じざるを得ない。 キリスト教のありかた、科学のありかたに、あまりに哲学的配慮に欠けている。この、混同を押し進めると、ローマ法王自ら、神殺しをやる結果になりかねない。これこそ、本末転倒だ。「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。とはこのことで、「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、ホーキング博士、あんな言い方はしません。
SFと言えばサンリオSF文庫。
絶版文庫Lineなんですが、大好きで集めてます。




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