2011年9月29日木曜日

運命の分かれ道



営業で町へ出ると、今日も1日生きている人々がいる。どこへも逃げ隠れもできずに、きっと10年後にも、ここで生きているであろう人々がいる。この人達と生きて行こう。そう、思う。冷静に考えれば、メルトダウンの時点で、東日本は取り返しなんかつかないとこまで行ってる。真実なんか、最初からわかっている。反原発のデモの人や政府がどんなにあがいたところで、変らない。変えれるなら、それはもっとマクロなことを、ミクロなところからだ。芝居ががった体制の維持なんかを、役者を振り分けて、やってる場合じゃない。でもそれが、双方の「癒し」あるいは「遊び」もしくは「暇つぶし」になるなら、盛大にやったらいいんだ。そういうのが、人の心には必要だし、そうでもしてないと、押しつぶされてしまいそうになるんだろうから。ガン患者は、ガンの告知で精神的な打撃を受けるが、実際に発病(身体的な苦痛)が始まると、精神的な苦痛に気を取られている余裕など、無いと聞いた。それは、予想を遥かに上回る苦痛であり、健常者には想像だにできないと言われた。嫌な話だが、そこには「生きる」ということの本質が感じられた。「それでも、こういう事態(震災や原発事故)がおきると、人のために何かできないか?と思うんだよ。自分でも信じられない心境なんだけど」と末期ガンの進行を投薬で押さえ込んでる、町の老人は言っていた。それはきっと、苦痛を知ればこその想いかもしれない。

916日。マスタリングに子安に向かう途中、JR稲田堤の駅で南武線を待っている時に、1人の小柄で温厚そうなおじいさん、(片足を少しびっこ気味)が、電車を待つ人々に「これ、私が書いたんです。読んでみてください。」とこの文章の手紙を配っていた。以下。


自然は草木や動物色々な生物を育てて居ります 人も例外ではありません
しかし人は種を蒔いて世話をするから 自分が育てた様に想い 
自然は偶然だと思いがちでありますが自然は人生の師でもあります
原点に返って人生を考えてみたいと思います

宇宙の中に生きる存在として 
人とは何かと云えば自然の中に生きる一種の生きものに変わりはない
ならば自然の動きを見ることに依ってその心を知り
其の心に添うか逆らうかに依って運命の分かれ道があります
こうすれば運が向いて来ると云う希望を持って生きるならば
一層大きな希望と勇気が湧いて来ると思います

生きた草や木は花を咲かせ人にも楽しませてくれます
そして花が散れば美味しい味覚を枝が折れんばかりに成らせてくれます
これが生きた草や木であります
しかし同じ草や木でも縁の下のスカンポは花も咲かず実も成りません
それは外の暑さや寒さを受けないで生きているからであります
人生においてもつらい事から逃れる事だけでこれが幸せだと思って
人として生きる勇気を持たない人生は心も弱くそして花も咲かず
実も成らない様な運命がやって来ます

暑さ寒さに立ち向かい風雨にさらされて育った稲だけが豊かな実りの秋を迎えられます
又倉の中に積まれた米は何時までたっても一粒は一粒
増えることはありません
外に出して田畑に蒔けば何十倍にも成って還って来ます
目に見えない空気の中にも気体分子と云って火に成る分子と水に成る分子また氷になる分子と
色々な分子が含まれています ですから 
それに色々な方法を加える事に依って火にも水にも又氷にも成ると云われて居ります
私達の命にも心という目に見えないものがあり
其の中に怒ったり笑ったりする分子が含まれていて
その者のもつ思想に依ってそれなりの運命がやって来ます

人はみんな生きる為に努力をして居ります
しかし努力をしても間違った思想をもって努力しても無駄になります

人はつらい事があるとそこから逃れようとして
その為に更に苦しみの因を作ってゆくものであります
たとえば不況の苦しみから逃れようとしてアセリ
そしてストレスを溜めて病気の因を作ってゆく事も多いと思います

つらい時も笑顔で支え合いいたわり合って楽しく生きれば
自ずとストレスは消えて行きます
不況や病気は人生の登り坂です
勢を出して笑顔で立ち向かって行きたいものでございます
平静にして待って居ても好運はなかなかやって来ません
だからといって悪に従えば運命に逆らう事になります
笑顔で人生に立ち向かえば必ず好運はやって来ます

山本 たけし(仮名:本名書いてあったんですが伏せさせていただきます。)


※許可を取る手だてがありませんし、頂いたものなので
ここに掲載させていただくことにしました。



最初、なんかの宗教かな?と、思ったんだけど、読んでみて、そうで無いのはすぐ伝わりました。かなり高齢の方でしたが、いろんな方にさり気なくお渡ししていました。1日あけて、ふと、思ったんですが、いや違う、これこそが真の宗教だ!と思い直しました、ご本人は微塵もそんなつもりは無いんだろうけど、何か、自分にもできる事があれば、という想いなんでしょうけど。この、ご老人が宗教だとするならば、この日本にある新旧全ての宗教法人は全て、金利権搾取詐欺団体なんじゃないか?また、でもこの老人は一言も「神」存在を説いてるわけではありません。ましてや「道徳」も、あるいは「政治」も。この、老人の云うところの「思想」こそが真の思う想いであり、それこそが政治とやらの根幹だと感じました。自己保身や挙足取り、立ち回りで隙を見計らうような、全ての政党政治に死を!「死を」というのはちょい強すぎるかもしれないけど。最近は生死を濁しすぎるきらいもあるので。どういうことかと言うと。今や、政治家は政党の方針に縛られず、自己を見つめ直す時代なのかもしれない。と、思うのである。例えれば、自分は人として政治家を見るようになった。民主党はもはや支持しないが、菅直人前首相は今も支持できる。自民党は支持できないが、自民党の中には、まともな事を考える資質の人がいたりする。共産党や公明党のように「人」が見えてこない全体主義的な政党は、存在すら容認できない。つまりは、政党政治そのものが、雁字搦めな要素が強すぎて、考え直す必要を感じてしまう。さもありなん。自分が日頃思うことを、独自な言葉で素直に語る、この老人に、感謝と尊敬の念を強く感じたのでした。

0 件のコメント: