2011年8月30日火曜日

絶望を見つめる。





また首相が変わった。見ていて思ったのが、政治家には、絶望や危機の喚起をする人が一切いないということだ、こんな危機的状態なのにだ。政治家がよく言う、日本語において「長期的視野で~」というのは「~する気はない」という意味。これが日本語。最悪である。なにか、いい事ずくめでどうにかしようとする者は、「絶望を見つめる」努力を放棄している。それは何か違う目的と、守るべき別のなにかがあるからだ。電力に関する抜本的な政策の打ち出しは急務であり、ここで舵を切り損なうとこの国は確実に破滅する。今の政治家もまた、ゲゼル的コミュニティ(自己利益優先社会の従属者)であり『政策の中身』に辿り着こう(あるいは思考しよう)という意思が皆無である事が明るみにでた。復興などできるものか!ノーアイデア、あるいは中身の無い者に中身を持てというのはナンセンスなのかも知れないけど。無いものは無いのだから、滅びるにまかせ、崖っぷちで混沌を向かえ、想像だにしない臥竜に身を任せ、なし崩し的に変わっていくしか無いのかなあ。まさに空洞だ。そのリスクは誰が負うのか?おそらくは合法的な殺戮が始まるのであろう、民意という言葉の幻想を逆手に取り、貧しき者は知らず、さらにサバルタンに追い込まれ(黙して語れぬ存在)黙した屍の上に、コミュの操作者達のみが平然と生延びる構造が、巧妙に形成されるのか?思考する自由と意思の選択の自由すら奪われるのである。生存を天秤にかけさせられるというのはそういう事だ。それがサバルタンを産み出すのだと思う。「生きて行くためには黙すしかない」と思わざるをえない構造を意図的に作り出すということだ。皆に「余裕」の有る今ならまだ間に合うと思う。おれの懸念する構造ができあがってからでは、世代的な封殺が完成しまってからでは、完全にサバルタンと化してしまってからでは、思考を、言葉を取り戻すのは、より困難になる気がする。想像を絶する年月を必要とするはずだ。奴隷創造の時代である。ローマ帝国は豊穣の時を終え、長く緩慢な滅びの時を迎えている。滅びは死同様に過程なのだ。豊穣に慣れたおれらがそんなものを受け入れる準備ができているわけがない。今日は「希望」と両輪の一方、「絶望」について書きました。すみませんでした。
死が瞬間では無く過程だとして、それが生きることだとするならば、絶望は常に希望を産み出す。滅びもまた、過程ならば、それは、誕生させつづける事そのものなんじゃないか、滅びの過程を終え、何か誕生するんじゃない、滅びの過程こそが誕生の土壌であり養分なのだ。生命には意思だけが有るんだと思う。人はそこに思考が加わる。「絶望を見つめる」ことをせずして、「希望」の選択などできるはずがない。

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