2011年7月12日火曜日

法と掟

 神社本庁が原発推進擁護してて、神社は荒れるは、地鎮は怠るは、してんなら、魑魅魍魎餓竜世に放たれてますね。やばいなあ。全て反転する日本の精神世界。すごですよね。日本は2000年の呪縛を乗り越え、建国できるかもしれない(これは逆説ですが)。完全な独立か奴隷か?おれはIndependence Dayを夢見、目指したい。神社本庁が地鎮を放棄したなら、みなさん、どんな音楽でもいいんです。真のFreedomが来ました。皆で踊り狂って、民が自ら魑魅魍魎を押さえ込みましょう!踊れ!踊れ!
 ところで、今のこの国、利権集約能力の有る人が、利益の分配を餌に得票し政治家になって来た土壌を変えるのは、困難だよね。資本主義は常に強い者(利権集約能力)目線になってしまわざるをえない。誰だって実利目線になってしまう構造は、裕福な者、貧困な者を問わないのだ。それを人権主軸に戻そうとするなら、政経分離と相互扶助の実現は、やはり「声を上げる」以外に道が無い。政治は社会主義的にあるべきでも、経済は自由であるべきという道となる。ただ、社会と経済を分離できるのか?という問いだよな。字のままだど、社会とは経済のことだもんな。社会主義では無いのかもしれない。そう考えるとイスラム社会主義と民主主義(資本主義)の両立は良く出来てる。あるいはラスタファリズムも、かなりまとまった考え方なんだなあ、と、思う。善悪や無償の福祉を司るのは、「意識の集合」であって思想や経済じゃないもんな、でも倫理を中心に据えた儒教や王明学もいきすぎると全体的に偏る。「意識の集合」というのがそういう問題を孕むなら、法のあり方(置き方)を模索する以外に道がない。日本は今、つうかおれら一人一人は今、とんでもない宿題の提出を迫られているのかもしれない。




 構造的差別を次々と産み出して金に変える能力に関しては、この国の右に出るものはいない。問題の根源に視線向けると、この国の歴史、氏姓の問題、あげくは天皇制にまで辿り着く。しかもこの国の場合、被差別者を血縁化することで支配の構造を強化してきた。これはもうはなから個人という概念の無い世界だ。いい部分もあり、弊害も奥深い。極端な話、家族の中から奴隷を産み出す(役割として置く)やり方なのだ。これ、感覚としてとらえると、根深く現在の日本人の気質にも根付いている。手塚治虫は漫画『奇子』でそこまで踏み込んでいたりする。この国に外から来る者は、内側にいると見えないこの構造がよく見えている。GHQしかり、華僑しかり、フィリピンや韓国、タイから来た人でも、見えているはずだ。この国で暮らす上で、彼らが細心の注意を払うのは、笑顔で温和に近づいてきつつ、この構造に組み込もうとする暗黙の力だ。「暗黙」の中には近づく者すら自身では気ずいていない「支配の構造」が組み込まれている。彼らは細心の注意をもってそこには「距離」を保とうとする。「距離」を維持しながら、この国の構造自体はうまく利用して、利益の得られる関わり方をする。自己を守りつつ、日本との関わりをつづけるには、それしかやり方が無いからだ。それが時に日本人には調子良く見えることがあるのだろうが、たちが悪いのは日本人の方なのだ。しかも、自覚が無い。どこか卑屈ですらあるこの感覚は自分の中にもしっかりとある。近頃はそれが見える。原発の問題が、理不尽な様相を表面的に持ちながら、具体化すればするほど、核心に触れられない、もどかしい状態に陥ってしまうのは、そういう全体の構造が原因だと思う。頭で納得できない事柄も、私たちは、その、遺伝子的記憶の中で、無意識に納得し、全体ではその構造を維持しょうとしてしまっているのだ。今、日本人は数百年どころか、数千年培い、維持してきた、その、構造の中に、完全に破滅の想定が明確な『癌』が根づき、もはや構造の維持と一体化してしまっていることは理解しつつある。だが、どうにもこうにもラチがあかない。それは、一体化してしまっているが故の、アイデンティティの崩壊と背中合わせだからだ。奇麗事はいくらでも放てても、具体的な解決に近づけないジレンマに陥っている。


 何故、日本はドイツやイタリア、あるいはエジプト、ベラルーシでもいい、ああいう展開にはならないのか?確かに悪しきは目に見えるのだが、その悪しきの根を足元から辿ると、自身の体と解け合っている部分を、無意識に感じ取ってしまうのだ。この個人という概念の無い日本的な世界感。かつては調和がとれていた。先に述べた弊害では無い部分。良い部分はそこにあった。社会が共同性(ゲイマン)が強く機能していた時代。この構造は差別は産み出すものの、それ以上に強い家族的「絆」の存在で、その弊害を補完していた部分もあった。役割は機能や利害を越えて、原始的な相互扶助の形を作り出し、従属者と支配者の境目は、「絆」を前には地続きで、可変可能な上下の部分には曖昧な要素を多分に持っていたのだ。そこには社会秩序は「法」を越えた「掟」が存在し、互いが互いの役割を尊厳を持って見つめ合える「ゆとり」があった。
しかし世界は日本に止まらず、グローバル化の時代を迎えた。かつて構造の基盤になるものは、善し悪しは別として閉塞した距離と時間により産み出され守られていた、それはまた、直接的なコミュニケーションにおいてのみ機能する情報の共有(認識の共有)の場でもあった。それが共同性の根幹であった。しかし、テクノロジーの進化、(インターネットなどの普及)グローバル化の促進は世界を日本を含め急速に利益性(ゲゼル)の強い結びつきの社会へと変えてしまった。その急速な変化に、日本は個人の関係性においては、他国同様に利益性の結びつきによる社会へと急速に変化したものの、根幹にある構造のみが、旧来の閉塞した構造を変えることができず、そのため、旧き構造の悪しき部分がより強化される形で残存してしまっているのだ。このため日本人は「個人の意思」が旧来のまま希薄であるのに、この旧き構造を自己利益のために個人個人が利用し、自己の利益を守る構造的土台としてしまっている。「個人の意思(個人という概念)」が無いのに、全体として他者を(家族をも)自己利益の為に利用する道具に見立て、その安易な立場の温存のためにのみ旧き構造利用する、より、構造的差別を強める状態に陥っているのだ。これは滅びの道であると思う。

答えは「認識」にある。あるいは「自覚」と言っても良い、日本を訪れる外国人は教養の有る無しにかかわらず、「見えてしまう」この構造。言葉で説明するのは難しくても、その実は、そんなに難しいものでは無いはずなのだ。どう変わるかは解らない。世界に習い、利益性の結びつきを「個人の意思」を育て上げることで乗り切るのか?または、時代に逆行してでも、再び新たな形の共同性を取り戻すのか?でも、変えるなら、「自覚」からしかその1歩は踏み出せない。

 個人的には、時代に逆行してでも、再び新たな形の共同性を取り戻すべきだと思う。「法」の上に「掟」がいるんじゃねえのか?俺らの部族には。と、思うのだ。倫理、道徳というより「掟」の方がしっくりくる。けして犯してはならない、「法」より強い「掟」。「法」の目はかいくぐれても、「掟」に反する行為は許さない。みたいなのが必要な気がする。人として犯してはならないもの。社会性や合理性、倫理、道徳を越えたもっと大切でシンプルなもの。今、「掟」みたいなフリをしておれら縛っているのは、先に述べた、利益社会が産み出した、人間関係の希薄さからくる昨今のいう「暗黙の了解」で、互いに触れざる犯さざるエゴの領域の不可侵みたいな、感じがします。twitter1つとっても、つき動かされる動機の中に「暗黙の領域」が明確に感じる。表現自由と言いながら、ものすごく不自由な感触がある。冗談1つ通じないみたいな。あるいはキャラ的な踏みとどまりを強制するような感触とか、このことは日本人にとっての「言語」について深く考えさせられた。無難さの奥に果てしなく広がる、「言語的な自己防衛」。そういうのを否定 してるんでなくて、自分自身もそうならざるを得ない感触。なんなんだろう。これは。twittetは脳の演出なのか?表現なのか? . 人々は自らの属するコミュニティにおける「暗黙の自己利益」をさも「掟」のように死守している。意見の隔たる者同士の理解が生まれにくくなっている。昨今の物事がなんか平行線を辿る原因なのかもしれない。たぶん、ほとんどが脳の宣伝なのかもしれません。人は自分を良く見せよう(あるいは逆説的に悪く見せよう)とする部分と、正直であろうとする2面性があるけど、演出である域を出ることはできないのが、言語の世界。日本語は行動、主体に辿り着く前に敬意と理由が必要な言語なのかもしれない。


詩や文学、今であればラップやリリック、歌詞。あるいは、こういうブログやTwitterでのつぶやき。自分は日本語は変えていけると思う。言葉を縛るものは単語よりは文脈。口語であれば、間や配列が産み出す意味性の変化。そういうのはどんどんやっていったらいいんだと思う。新たなる「掟」を産み出すためにも。

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