2011年8月4日木曜日

価値あるものとは何か。

昨日、電気止める人が家に来た。電気の送電停止業務は個人委託で名刺も持ってない。サービズの現場の矢面には決して立たない東京電力。こんなご時世、一番辛辣な対応を受ける業務は、名刺すらない、企業でなんの社会的安全の保証もしてない人々にやらせているんだなあと思った。実際に原発直してるのもそういう人達なんだろうと思われる。電力王宮直属の奴隷だ。 普通、優良な企業の幹部の人達は、必ずキャリアの中で末端業務に携わった経験を持つ。企業とは名ばかりの、電力王権にはそんなものは無い。科挙制度(学歴偏差)というのは、貧困の格差、差別を巧みに覆い隠す制度だ。高学歴者の親がどれだけ金をつぎ込んでるか?という話だ。実際の能力とはなんの関係もない。見えにくいだけで、その実、室町時代よりも酷い階級制度が敷かれていることに、気づかないとまずいのかもしれない。自分も彼ら同様にネオ・サバルタンに属する者として、心に刃を持って、言葉を紡ぎださねばならない。蟹工船なんて甘い事態じゃない。 都市に巣くうネオ・サバルタンは発言すべきなのだ、黙して語らない状態になっているが故にサバルタンと化しているとしてもだ。
企業体への所属を拒まれ契約者として浮遊させられている、日本経済の戦奴たちは反逆の支度を整えるべきだ。我々は奴隷であり、究極状態においては移動もままならず、「死」の矢面に立たされるモルモットであることを自覚せねばならない。見せかけの意図的な「向上心」に強制され、実力主義の幻影を信じ込まされ、暗黙に金の亡者に仕立て上げられ、あるはずもない明日を夢見るのを即刻やめるbきだ。メディアの価値観に洗脳されてはいけない。フリーターに家は買えない。簡単な操作だ。目を覚ませ!若者よ、と言いたい。未来は保証されてない!誰も保証なぞしていない。黙して語らぬ俺ら中年の世代を代表してあえて言わせてもらう。有象無象に社会に埋もれるかつての若者は刃を奪われ、サバルタンと化しひたすら黙している。それが、若者の未来だ。それを受け入れるか否かは自分次第だ。電気の送電停止業務は個人委託の人は自分と同世代だと思われる40絡みの男だった。彼らと自分の間には何の差異もない。彼がどんな人生を歩んで来たかは、黙して語らぬが、その目は雄弁に己を語っていた。


エネルギーに更に「価値」をつけてはダメだと思う。発電力のある者と被発電(電力消費しかできない)者に新たなる格差を生むだけだと思う。電気は道路同様、あって当たり前でいいのだ!公共の福祉である。砂漠のオアシスの町では、電気と水とではどちらの価値が高いと思う? アフリカの乾燥地帯では?この国では電気は価値を高めすぎている。あげく、水、環境、食物を粗末に扱う。電気の価値が下がれば、原発の価値は下がる。発電の価値が下がれば、電力会社に利権は生まれない。おれらは、豊かな水と大地にもっと感謝の意と価値を認めるべきであって、電気などにではない。前にも言ったけど、タダにすべきだ。一般家庭の1日の使用電力量平均が13キロワット、年間で約4800キロワットを基礎電力量とし、無料にする。(1人暮らしから、1世帯する)全ての電力会社を国営とし、電力省を設立する。基本無料分は納税で賄う。基礎量以上、事業電力は徴収する。目先の権威構造の打倒を目指すのではなく、根本原因を含める構造の変革を目指すべきだと思う。土俵を作るところから考えなければ「何故、電力が利権になるのか?」という根源的(ものすごくシンプル)な問いは解消されない。独占のシステムを打ち破るのが目的では無く、独占の根本原因を変えてしまうことが重要だからである。一般道路の補修維持も本当はタダではない。自治体が莫大な予算をあてて維持している、土木に関して善し悪しはあれど、自治体主導の需要(雇用)を産み出している。自治体の事業として、利益や雇用を生むのであれば、発電もまた、納税でやりくりできる構造をなんとか編み出すことは、地域経済の活性化に具体的に繋がるはず。重要なのは、道路の使用が売り買いできる存在で無いように、電気もまた、売り買いできる存在であってはならない、と、定義することなのだ。実際には発電にはお金はかかるだろう、そういう事を言ってるんでは無い、「電気が市場価値を持った商品(売り買いできる物である)」ということが、利権化する根本原因なのだ。エネルギーを誰もが作れることに関しては異論は無いし素晴らしいことだと思う。自分は段階的であれ、「価値」に対して「価値」で抗うのは解決にならない。し、リスクを孕んでいると、思うだけなのだ。電気の価値を下げる。これ、誰にでもできることで、電気代を払うたびに、「このお金(価値)が空気を汚し、水を汚している」と思うこと。そして、本来これは無償で与えられるべき権利なのに「搾取されている」と思いつづけること。人が物の価値を定めます。皆がそう思うことは、現実に価値を変えると思う。

太陽あびてスクスク育ってる植物から、エネルギー代は取れない。
おれらはそういう愚かなことをしている。

日米原子力協定 http://p.tl/X-0X は核不拡散政と原子力平和利用が前提の条約であり、事実上、原子力平和利用が困難である見通しから、先の首相発言があるのだと思う。対米的に表向きは何の問題も無く、脱原発を推進できるということだ。国の利権構造による弊害と、混濁すると危険な事象でもあって、協定上、原子力に関する安全確保は米国と共同で研究されているわけで、謀らずも、事実上、我が国がモルモットみたいな状態になったりしているのは、東京電力と国の対応の問題であり、利権構造の維持に関わる弊害であることを認識すべきだ。米国は棚からボタ餅であるだけで、そいうのは歴史的に見ても確実に情報を逃さない国ではあるが、その検証は不確定要素を含んでいる。アメリカもまた「価値」により大きくその動向を左右される国だからだ。あの国はそれまで意固地になって死守してきた利権でも、「価値」が失われればあっさり見限る。 良くも悪くも、それが資本主義経済の根幹だからだ。金にならないと思ったら、平気で手を翻す可能性だって残されているのだ。現在、ぶっちゃけ最悪の状況がアメリカを筆頭とする自由主義、資本主義経済を腐らせている、でも、唯一、残されたこの価値観の上下が、市場原理の根本にある以上、「価値」を見定める、あるいは決めるのは、個人個人自身であることをあらためて強く思った。有るか無いか決めるは我々なのだ。経済を活性化し、未来に向けて本気で前進する気があるんなら、個人使用の電気と通信(ネットなど)は無料化する道しか無い。全てのユビキタス利権を国民が握り、自由に使う一方、森林を含めた、水の循環の回復を国務とし、農作物豊かな国土を取り戻すべきだと思う。悪い未来じゃ無いと思うけどな。

 最近氾濫した信濃川は日本最長最大の河川で、日本列島の動脈(命綱)である。いつから我々は治水もまともにできない下等な種族になったか。。原発よか問題だ。海もまた、治水。治水の基本を我々が覚えていれば、あんなところに原発など建てない。また、全部無くすにせよ、核燃料の管理にあたり、治水の基本を思い出せないなら、放射線など今後いくらでもダダ漏れになる事態を繰り返えすはずだ。何故河が氾濫するか。水は勝手に生まれてくるものでなく、森林の管理で産み出される。何故、予想外の津波が来るのか?堤防だけでない、海岸線の治水構造を破壊して不用意に埋め立てをすれば、水位に大きな影響がでる。オランダの広大運河は。陸地全体が海抜が海より低く、それを生水で押さえ込むために、ある。風車でもって絶えず治水をしているのだ。すごい高度な構造。たとえば、江戸幕府の治水技術は当時でも世界最高の技術を誇っていた。唯一の貿易国オランダの技術者が驚愕するほどの技術だ。当時それはかの国に多大な影響を与えていたはずである。教科書には触れられてないことの1つだ。当時、オランダはものすごい先進国として日本を相手にしていたのだ。明治の開国以降、はじめはその先進性を維持していたものの、どんどん後進国に成り下がっている事実を認めねばならない。我々は退化している。同時にその事実を知ることは、ぼくに勇気と希望を与える。専門家では無いから妄想のようなつぶやきだけど、国土の浄化には、治水の考えを取り入れれば、最速の浄化ができるかもしれない。風船爆弾ではないけど、何か地の利や水の循環をうまく利用した浄化方法があるような気がする。 全く以外な、かつ、日本人独自の発想で。かつてくまなく張り巡らされた水路で、江戸の町は冷却されてて、夏涼しかった。全ての建物は風通しを計算されて建てられていた。これを高度な技術という。偶然にも、森林の伐採が根本原因で氾濫する、日本最大河川の源流で、まさにその真っただ中でで、その伐採で開かれた平地を足で汚泥と化しながら、踊り狂う人々がいた。自分には集団発狂してるようにしか見えない。
「歪(いびつ)」について考える。元々我々は自然に、自然エネルギーを取り込んで生きているのに、電気やユビキタスで文明の動力を自然エネルギーでまかなうことを目指すのは、究極の遠回りな気がする。本来ある姿を目指し、本来ある姿からどんどん遠くへ行こうとしているような歪さを感じる。完璧で理想の文明は、究極の不完全な文明なんではないのか?良さげに見えて、微妙に失いつつ有る「謙虚さ」を取り戻すことはもうできないのか?未来において、「昔は放射能だの、原発だので大騒ぎしてて、まだかわいいもんだったよなー」なんてならなければ良いのだが。「謙虚さ」は同時に「誇り高さ」であり、それを同時に失いつつある気がしてならない。「価値あるもの」とは何なのだろうか?

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