2011年10月13日木曜日

棒がいっぽんあったとさ。(高野文子と黒澤明)


自分は船橋にある高根台団地で産まれた。
そのあと稲毛~西千葉の海岸線にあるマンモス団地、幸町で小学校3年終わりまでをすごした。
時代は高度成長期真っただ中の1970~1976年頃だから、
巨大な団地は活気に溢れ、賑やかな子供達の声が響いていて、
今は絶対あり得ないんだろうけど、夏になると、
団地の隙間にあるような公園から真上に向けて打ち上げ花火を上げていた。
まだ、真新しかったカラーテレビをつければ、月面を歩くアームストロング船長。
お茶の間からみんなで、月から送られる、地球の姿を見つめていた。
また別のシーンでは、モウモウと上がる砂煙の中を、デモ隊のバリケード封鎖に機動隊が突入していた。

あれから、40年の月日が流れた。高野文子の漫画、『棒がいっぽん』を読んだ時、
鮮やかにあの頃の臭いが蘇るとともに、あの頃は子供で思いも及ばなかった、
当時の大人達の心境、目まぐるしく変りながらも、どこか、その速度に心なしか躊躇いを感じながら、
生きる自分の父や母にあたる世代の心象が、大人になった自分に、すっと入り込んできた。
ふと、実家で父と話していて、思ったのだが、父の世代は、80歳になる今も、
その戸惑いを抱えながら生きている事に気づかされた。
戦後、日本という国を支え、引っ張っていったのは、
政治家でも運動家でも作家でもなくて、どこにでもいる、そんな、大人達だったのだと思う。
その戸惑いの中に、丁度、原子力発電も建設され、後ろから背を押されるように
「生活の向上」を受入ていたのかもしれない。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/棒がいっぽんから抜粋)
『棒がいっぽん』(ぼうがいっぽん)は、高野文子漫画作品集。19957月にマガジンハウスより刊行された。1987年から1994年にかけて発表された6作品を収録している。高野の5冊目の単行本であり、短編集としては『おともだち』以来12年ぶり3冊目のものとなる。表題は収録作品『奥村さんのお茄子』の作中で用いられている絵描き歌『かわいいコックさん』の歌詞から。


深淵まで降りて行こう。本音まで降りて行こう。
日本人という生き物は、実はもう「ローマ帝国の競技」から足を洗いたいのだ。
自虐の果てまで降りねば気が済まぬほど、
自ら(国土と自然)を傷つけたことを深層心理で悔いている気がする。
日本人はヨーロッパ人では無いから、後悔と自虐の念が強すぎるのだ。
合理的にかたずけてしまえないのだ。
2000年の歴史において、最悪の失態を母なる大地を失うことへの自責の念が強すぎるのかもしれない。
本当は皆で泣き出してしまいたいほどに。
これだけは、西洋人には絶対理解できない心境だ。
ひょっとすると、どこかで、こうなっててでも、この西洋文明から抜け出す糸口を無意識の内で、
欲しているようなところさえあったのだ。
日本人は今。原発を盾に、徹底的に西洋文明を破壊しようとしているのかもしれない。
あの映画、ゴジラのように。
申し訳ないがキリスト教徒の自然や生命のエネルギーと戦うような思想が、日本人には無いのだ。
滅びを祭りと捉え、破壊をどこか受け入れてしまえる気質を持っている。
山や川や海や穀物と自分との間に、合理的な境目を持てないのだ。
西洋の思想から見ればナンセンス極まりないのかもしれない。
でも、なんの違和感も無く、木々な流されれば、自らの身も流される。
大地や田畑、海が犯されれば、自らの身体もその毒に晒してしまう。

ただ、放射能。今回は相手がでかすぎる。
いままで十分すぎるほど葛藤してきたのに、深層の底の底まで押し殺して生きてきたのに、
こんな顛末を向かえてしまうなら、子供達にその贄を押し付けることなどできない。
もう堪える必要など無い。
世界を相手に戦争までして、ここまで来たのだから、意地を張るにはリスクがでかすぎる。
もう、自分をごまかすのはやめにしようかとも思う。

虚勢を張る日本政府と、日本企業が、まるでかつての大本営の様に、「希望」を偽り続けている。相手は人ではないから、勝ち負けなど無いのに、放射能に屈服することを認めたく無いのだ。我々は真実を隠され、本土玉砕に突入している。心を鬼にして若者や子供達と決別しないといけない限界が近づいているような気さえする。

自分の身近な人には、偶然にも福島出身者が多い。
彼らは、毅然としている、その反面、彼らの口から知らされる身内の真実は、毅然と淡々と話すから、なおさらその重みを感じざるを得ない。福島の人の気質なのかもしれない。
ある人は東京で自分のそれまで関わってきたものを全て投げ打って半年間、身内の救済に向かった、東京に帰って来た時、それまで得たものは全て失われていた。それでも、なんてこと無いように自力で再生へ向かう。
ある人は一時期家族の避難を東京で受け入れる。でも、準備の無い所に、いきなり家族がまるまる、上京するというのは、それまでの生活の崩壊を余儀なくされる。妻の居場所は無く、短期間だけ、別々に暮らすことを余儀なくされていた。家族は福島へ戻ったらしいが、正直、多大なストレスが彼に残ったと思う。
そして、現状を話す。保証の話など、まるで進んでいない現実。
若い女性に向けられる、哀れみにも似た排他と差別の眼差し。
保証の話がまとまらないと、脱出しようにも、どうにも動けない(自主避難者への保証は後手にまわる可能性があるからだ)。
生き殺しである。
今、福島200万の人々に必要なのは、復興や援助では無く、救助だ。
しかも、彼らは放射線を厳密に気にしていたら、生活もままならないから、無視せざるえない状況にいると聞いた、それを知らされた時、あるいは、関東でストロンチウムだのプルトニウムだのの検出のニュースを知るたびに、毎日、想像を超える、もはや検査さえする気にもなれないほど、膨大な量の放射線にさらされている200万も人々を思うと、自分の国を憂うだの主義主張などが霞の様に消えていくのを感じた。
もはや、この国は。国の方向だの、復興だのを奇麗ごとを並べて議論している余裕など、微塵も無くなってしまった。国益なんか全てかなぐり捨てて、アメリカ合衆国の属国になってもいいから、TPPを受入れ、米国の全面支援の元、今すぐに福島200万の人々を救助すべきだとさえ思えてしまう。

自分個人の思惑など、もはやどうでもいいところまで来てしまった。というまさにそれが、目論み通り、某国の手の内に乗ることだとしても、プライドを棄ててでも、現実的にはまずは、放射線への敗北を認め、東北1000万の人々を救助することが最優先に思える。
屈辱でも受入ざるを得ない状況を作られてしまったのだ。でも、であるが、「道」は1つでは無いことに変わりは無い。どんなに回り道でも、この屈辱を受け入れ続けることはできないし、なしくずし的な日本政府のやり方は、卑劣極まりない。
それは解った上で、あえて、それでも、東北1000万の人々を救助することが最優先に思う。
気が狂いそうなほど屈辱的で無念だ。

戦後の焼け跡に、未来を模索する、若者を描いた、黒澤明「素晴らしき日曜日」という映画がある。
その映画を見た時に、個人では抗うことのできない屈辱の中でも、
自分自身を鼓舞し、傷つきながらも前に進もうとする、若者の葛藤が描かれていた。
「夢見る」というのは、どういうことなのか?
なんの葛藤や屈辱も無いところに立って、「夢見る」ことなど出来ないのではないか?
想像を絶する理不尽さは、皮肉なことに、今もあの頃も変らない。
僕らには、躊躇いながらも、前に進む事。「夢見る」ことをやめない事以外に、
何ができるのだろうか?

戦争の傷跡が残る東京。
幸い職についてはいるが、友人の家に居候の雄造(沼崎勲)、姉の家に同居の昌子(中北千枝子)のカップル。一緒に住む事もままならず、週に一度、日曜日にお互いに会える事だけが唯一の楽しみであった。しかし、手持金はわずか35円(現在の貨幣価値に換算すると、約3,500円)。それでも楽しいランデヴーを計画する2人の前に、切なく惨めな現実が立ちはだかる。
真面目に生きる事のむなしさに失望しそうになりながら、二人は喫茶店を開く夢を語り合う。


戸惑いに立ち止まる力と、夢見ることのバランス。
今の僕らは、その力だけはあるような気がする。

話は逸れるが、最近の実験結果で、相対性理論が崩れそうな、
光より早い物質の可能性がある話がある。
自分はカンで、時間なんて人間の作った概念で、本当は無いんじゃないか?と思ってたのが、
概念の最高峰の側から崩壊しはじめた。
2日前と2000年前に差が無いという感触。
今見える星は、実はすごい過去の姿と、言うけど、そうなのか?
時間と距離の同時性すら、人の思考の限界にすぎない。
あれは、今の姿だと思う。視覚の方が正しいかもしれないと思うのだ。
また、自分は感触としては音の方が、光より速度が早いと思う。
音の速度は到達を基準に量れないと思うのだ。より深度(というか密度?)のほうで速度が上がる。
例えば、意味性の伝達を試みる時、視覚的速度のみに気をとられた、ファ二イな現代アートや広告より、
昔の絵画の方が速度を感じる時がある。
美術館にいけば一発でわかる。昔の絵画。アイキャツチは現代アートみたいに強く無いけど、
一発で深淵に引き込まれる。どちらが、速度が速いのか?

SFの世界では、すでに同時性の捉え方が少しふみこんでいる。
時間を立体的な群でとらえる考え方で、
ある一定の距離と時間の範囲内(過去と未来)を相互干渉を受ける範囲として(たとえば10万光年の360度距離と時間範囲は同時性を持つ)その群全体では時間が進む。みたいな。
でも、時間と距離と干渉に関して、自分は少し違った考えを持ってる。
SFは速度に関して、物理的なテクノロジーの進化を基準にしているように思えてならない。
つまり、移動能力におけるスピード(時間短縮)に偏重しすぎている。
でも干渉力とはそうなのだろうか?
たとえば、ダンスというのは、体と感性のシンクロだと思うのだけど、
物理的な身体性とテクノロジーに偏重すると、どんどんドンシャリ(低音と高音)がより刺激性を強め(強調部のみの進化)、感性の方の速度感自体を歪めていく気がする。
移動と干渉。
あるいは、1万年前に100人がモンゴルからアラスカまで半年かけて移動したとする。
その100人の与える干渉力と、1日でいったり来たりするような高速移動でモンゴルからアラスカを半年でのべ5000人がいったり来たりするのとでは、どちらの干渉力がより強力で速度があるのか?
なにか「伝わる」ものがあるとして、どんなに高速移動でその表層と情報が飛び交っても、その「伝わる」ものの本質が欠如していたら、(あるいは受けてが、表層のみを取り入れ、本質を無意識で拒んでいたら)それは「伝わってない」のと同じなんじゃないだろうか?

web上で言うのもなんだがネットによるコミュの促進てそんなに必要なのだろうか?
と、思えるときがある。
自分は性根が薄情なタイプなのか、最近あまり、必要を感じないのだ。
そんなに多くの人とコミュニケートしないといけないのか?
それができるなら、極端な話、伝達を軸に考えると、音楽や文学などはいらなくなってしまう様な気がする。
コミュが深まれば、深まるほど、コミュ内の関係は均一化し、売り手と買い手なんて、下品な構造が見えて来たりして、一層、人は人の表現やなんかに興味を示さなくなる。
既存の売り手が、その危惧から、黙すれば黙する程、気づかぬ内に市場との距離が生まれ、「伝えたいこと」ではなくて、「売りたいもの」と化してしまう。
そうなればなるほど内容なんてどうでも良くなっていく。
進めば進むほど誰でもよくなっていく。
ものごとには「辿り着き方」というものがあるのだ。
全てが掘り起こされて明るみに出る時代。それは、走馬灯の様に全て「なかったこと」に向かっていってるようにも見える。
また、twitterなどの速度の早い情報と、それに関わる議論がみんなの意思の操作の無い体系ということだと、政治もまた、表現同様、必要無くなっていっている。
政治というのは、操作と失敗を前提としないと何もできないからだ。
失政は政治の本質なのだ。
全てが明るみに出て、その速度が凄まじいあまり、結局何もできないとか、何も産まれないんじゃ、なんのための速度なのか?
全ての幻想が打ち砕かれた時、その荒野にはいったい何が立ち上がってくるのか?
少し怖い。

急速に(少し異常なほどに)需要がへる音楽(CDや配信)や書籍(雑誌から文学に至まで)を見ると、それらがWebに集約されてるとは思えない。
音楽や文学はメディアでは無いのに、商品として、ITメディアと競合してしまい、今や壊滅の1歩手前まで来ている。
政治でも、化けの皮が剥がれた政界に、哲学の欠片もない不毛の荒野があるなら、誰がTwiiterの情報速度の全てをねじ伏せれるだけのバランスのとれた哲学センスを持って、政界に立てるのか?
ユビキタスが人々の意思をもその構造体の基盤に取り込み、最後には「機能」だけがまるで、人類誕生から続く真実かのごとく立ち現れるなら、やはり、悪魔に魂を売り渡してでも、自分個人は「人」という動物の一種族である道を選ぶ。それだけは譲れない。どんなに時代にそぐわなくても。

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