2012年3月18日日曜日

【特別連載コラム】New Roots Reggaeって何? その1『原子力という物にからめて、まずはBob Marleyから』





 2011年3月11日。東日本を襲った大規模な断層破壊をきっかけとする1000年に1度のプレート崩壊地震は、空前の災害被害にのみならず、日本の国や生活の根本から脅かすような、事態に至っている。その、最大の要因は、日本の経済において、大きな利益を産み出してきた事業、原子力発電所の致命的な崩壊であり、世界にも類を見ない規模(原子炉3基のメルトダウン)のの放射線被害を日本列島全土に及ぼしている。放射能の特性から、身体的被害を先送りされたいる状態で、人々は長く苦しい精神的圧迫や、巨大事業である事が起因して、全てがままならぬ、悪循環のスパイラルに陥り、構造の崩壊自体に個人個人が対峙しなければならない、今までには想像だにできない事態に至っているのだ。個人は被害を受けながらも、また、被害をもたらす構造を構成する要素でもある、自らの存在を、身体性や個というものと、社会的存在としての自我の完全なる分断によって、極めて情緒的にもアイデンティティの維持の崩壊(それはもはや自律神経の維持という精神医学上の疾病要因にまでなるほどの)にまで及んでいる。いつ、気が狂ってもおかしく無い状態で、自身の日常生活を保つために、もっとも簡易な手段、自己の存在の分断を棚上げする(まるで無いことかの様に無視する)という行動に至っているが、それは、問題の根本解決では無いので、放射能の特性も相まって、だんだん時がたつにつれ、無視すればするほど、大きな塊となって、自己を蝕んで行く。それは、新自由主義経済の普及により、精神的な豊かさを過小評価し、自己の金銭的欲望のおもむくまま生活をしてきた結果の弊害でもある。自己の完全な分断において、自身を保つ唯一のすべが、そのおざなりにしてきた、確固たる精神的な土台と豊かさなのだから。

ニュールーツレゲエと呼ばれる音楽の説明にあたり、まず簡単にルーツレゲエの話からはじめたい。レゲエ・ミュージックと言えば、誰もがまず頭に思い浮かべるアーティストがボブ・マーレィだ。ボブ・マーレィについてはここでは詳しく語らないが、そのボブ・マーレィの楽曲の中に、Bob Marley "Redemption Song"という曲がある。歌詞はこうだ

Old pirates, yes, they rob I; 
Sold I to the merchant ships, 
Minutes after they took I 
From the bottomless pit. 

遠い昔に海賊が俺達をさらって
奴隷船に売り払ったそして奴らは
俺達を商品として
船底から引きずり出した

But my hand was made strong 
By the hand of the Almighty. 
We forward in this generation 
Triumphantly.

だけど俺は逞しくなった
全能の神が手を差し伸べてくれて
俺達はこの時代を進んでいく
勝者のように誇らしく

Won't you help to sing 
These songs of freedom- 
'Cause all I ever have: 
Redemption songs; 
Redemption songs. 

一緒に歌ってくれ
自由の歌
俺が歌ってきたのはすべて
自由を取り戻す歌
自由を取り戻す歌

Emancipate yourselves from mental slavery; 
None but ourselves can free our minds.
Have no fear for atomic energy,
'Cause none of them can stop the time. 

奴隷精神から自らを解き放とう
俺達の心を解放できるのは俺達しかいない
奴らの原子力なんて恐れることはない
時間を止める力など持っていない

How long shall they kill our prophets, 
While we stand aside and look? Ooh! 
Some say it's just a part of it: 
We've got to fulfil de Book. 

いつまで奴らは俺達の預言者を殺し続けるんだ
俺達はただ突っ立って眺めているだけなのか?
誰かが言った、この受難こそ預言の一部だと
俺たちで聖書を完結しよう

Won't you help to sing 
Dese songs of freedom? - 
'Cause all I ever had: 
Redemption songs ?
All I ever had: 
Redemption songs: 
These songs of freedom, 
Songs of freedom.

一緒に歌ってくれ
自由の歌
俺が歌ってきたのはすべて
自由を取り戻す歌
俺が歌ってきたのはすべて
自由を取り戻す歌
この自由の歌
自由の歌 




ブラックミュージックはその歴史から、ルーツ(アフリカ黒人奴隷にまつわる歴史観)を主題にした唄が、レゲエだけでなく、古くはブルースに始まり様々な音楽で創られている。この曲も、土台はそういった古典的なブルースのテーマを歌っているが、ボブはモダンシンガー(現代の歌手)なので、そこに、もっと広いモダンな意味性を持たせている。それは『現代において奴隷とは?』という問いだ。その解釈は明確に黒人奴隷を意味していないところまで及んでいる。これが、Have no fear for atomic energy,というくだりだ。原子力が脅かすのは、黒人や貧困者に留まらない、全ての人間に対して、無差別にその猛威を発揮する代物だ。その存在は個人的な物ではない。兵器であれ、発電所であれ、集団がその社会や国家の維持のために、武器とし、または、破滅的と思えるほどの次元のエネルギー効率から、発電などの根幹構造に関わるものとして存在する。だが、その存在は、人間という個人の身体に関しては、明確な『毒』を持って存在する。個人の生存とは直接一切の利便性を持たぬばかりか、一瞬にして存在を失わせる強大な毒物なのだ。我々は国家や社会という集団になったとき初めて、この恐るべき代物をその集団の存続のために、「必要である」としている。では、『現代において奴隷とは?』奴隷という存在もまた、人間個人では成り立たない概念だ。集団が集団の維持のために、労働力として、一部の人間を一方的な搾取の対象に貶めること。これが、『奴隷』に他ならない。『奴隷』とは社会構造的な存在なのだ。では現代において『奴隷』とは何か?先の序文で述べた、「社会構造における自我と個人の分断」が起きたときに明るみに出たと思う。そうなのだ、現代において『奴隷』とは、社会的存在としての自我から分断された、個人そのものなのだ。それを象徴的に表すのが、 atomic energyつまり原子力の存在なのだ。我々は社会構造における自我において完全なる構造の一部、つまりは搾取者であり、一方、生活者個人としては構造の『奴隷』であるのだ。ボブの言う「奴ら」とは前者であり、彼が「共に恐れることなく戦おう」と呼びかけているのは、後者の我々個人、もっと明確に言えば、「自分を自分たらしめている個人の精神」に向かって呼びかけている。こうした、古典的なブルースの手法を用いながら、もっと深く、精神にまで呼応を求める音楽のスタイルは、どこから来たのだろうか?それが、レゲエにおけるルーツレゲエミュージックの根幹にあたる。

ボブ・マーレィが最も影響を受けた音楽は2つある。
それは、カーティスメーフィルドを中心とするニューソウルと日本で呼ばれる音楽。そしてもう1つは、彼と同時代に深いメッセージ性を帯びて世界に広がったロック・ミュージックだ。ニュールーツレゲエと呼ばれる音楽は、その影響の土台をジャマイカンルーツレゲエに持ち。実際の成り立ちの根幹にはUK(英国)のルーツレゲエシーンを元にしている。ここではジャマイカンルーツとの関わりは、ボブを渡英者の代表として、細かくは省く。というのも、ボブはその音楽制作生活の中で、渡英隠遁生活をロンドンで過ごす時期があり、そこで『エクソダス』と『カヤ』というアルバムを完成させた。この2枚のアルバムのコンセプトが強く、UK(英国)のルーツレゲエ発祥に影響を及ぼしている。このアルバムでボブは先のブルースのモダン解釈同様に、ラスタファリズムに強く傾倒しながらも、先のニューソウルとロックの強い影響の元、独特なモダン解釈で、「精神にまで呼応を求める音楽」を完成させている。それは、完成と同時に『表現の視野を広げた』作品でもあり、より深く詩的で自由な表現方法を提示したとも言える。また、当時、ロックやソウルが内側に籠り個人的表現に偏りだした矢先に、個人的表現と深く広く外側に向けて放つ精神的メッセージ性の共時性(同時に成り立たせる)という驚異的な離れ業で、ロック・ミュージック、とりわけパンクロックとそれ以降のオルタナティブな音楽表現に与えた影響は多大なものがあった。アスワド、スティールパルス、マトゥンビ、ブラックルーツ、他、UKのバンドスタイルのレゲエミュージシャンは、このボブの切り開いた新たな音楽表現の世界に呼応する形で音楽活動を広げて行ったと言っても、言い過ぎでは無いと思う。

このボブのアルバム『エクソダス』と『カヤ』は2つの強烈な側面の違いからも、後のニュールーツレゲエのあり方を示唆する内容だ。『エクソダス』はルーツレゲエの戦闘的でWarrior な側面、先に述べた、『構造と戦う個人の精神』に強く訴えかけるテーマで創られたアルバムだ。レゲエ的な言い方だと、「バビロンと戦うラスタ戦士」みたいな感じなのだが、その簡潔な言葉に至る、独自の解釈と深い含みは、ボブの詩表現に勝るものは、いまだ無い。それは、その概念を産み出したに等しいのだから、まあ、当たり前なのだけど。一方で『カヤ』は優しく、ピースフルでまさに『愛』をテーマにした音楽的にもメロウで素晴らしい作品だ。UKでは後のLovers Rockと呼ばれる甘くメロディヤスなレゲエ音楽に通じる先駆なのだが、ボブの場合はLovers Rockともひと味もふた味も違う、先に述べたように、個人的で日常的なラブソングの中に、深く精神的で社会的なメッセージを同時に含ませるという離れ業をやってのけているのだ。ボブの『カヤ』の表現の根幹には、シリアスで攻撃的なメッセージをスイートなメロで甘く、しかもダンサブルな音楽で表現してしまうカーティスメーフィルドの影響が色濃く現れていると思う。ボブのカーティスとの大きな違いは、それをシンプルな歌詞でしかも解りやすいポップなメロディでやってのけた点だ。シンプルなガレージロックにラブソングにとどまらず、真摯で政治的なメッセージを混ぜるパンクの手法の根本にあたる。

ボブ・マーリー初の公式ドキュメンタリー映画、4月公開に
http://bmr.jp/news/detail/0000012879.html  



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