2011年10月12日水曜日

国を売り、人を救うか?


最近思うのは「道」は1つでは無いのでは?と思う。選択肢があるのだ。政治を司る者の基本的な考えはこうだろう、「除染するにしろ、復興をするにしろ、経済力抜きにには何もできない、多少の犠牲を払っても、(あるいは嘘があろうと)経済力の維持がさらに悲惨な事態を回避する絶対条件だ。」国民を犠牲の上では意味が無いと思えるが、さらなる犠牲を押さえるためであれば、悲しいが一理ある。だが、それも「国の維持」を前提とした考えだ。「国」というのが、「人」をさすなら、人を犠牲に国の維持はおかしいのだ。それは「利権者の国」をイメージしてしまう。もう一つの道、「国」が「利権者の国」であるなら、民にとって、「国の維持」すら必要無いのではないか?という考え方だ。厳密に「人」を重んじて対処するなら、国土の半分を失う。それではこの国は狭すぎる。TPPは国家の自主権や独立、自立維持を前提とすれば、最悪の内容だ、だが、「アメリカへの植民地化」を肯定すればどうか?途端に合理的な道筋に見える。戦後の「占領」で国難を乗り切ったのなら、今は「植民地化」で国難を乗り切る方策だ。EUの様に、アメリカとより共同体化する道。個人的にはアメリカの州になった方が早いんじゃないか、とさえ、思える。そうなれば、狭い国土は一気に巨大な国土(?)へ変る。現在の経済力が衰退する、その前に、アメリカと合併するということだ。もはや、国なんて、企業体みたいなものだから、合併。経済至上を考えれば合理的だ。現政府はこの方向も模索しているかもしれない。

もう1つの道。中国への帰属。これは現実的では無いかもしれない。何故なら、これに一番拒絶を示すのは、中国以外の多くの国が拒むだろうから、アメリカ、韓国、台湾、ベトナム、フィリピン、ロシア、数え上げたら際限ない国が拒絶するはずだ。自国の自治を脅かす強大な経済、軍事国家の出現であるわけだから、反原発、反TPP、反米、反戦を掲げ、この挙げ句が、中国社会主義への接近だとするなら、最悪の偽善だ。何故なら、それは反原発も反戦も到底望めない道だからだ!世界の脅威。中華日本人民共和国。そんなものが出現したら、東方ロシアは気が気じゃない。朝鮮半島や台湾なんかひとたまりもない、東シナ海沿岸だって、その強大さの前に自国の自治など維持できるかは微妙だ。放射能で汚染された太平洋の海域は完全に制圧される。今の米国にそれと対峙するほどの力は無い。それは共産主義者による、大東亜共栄圏の誇大妄想であり、中国が党幹部による利権独占の疑似資本主義路線をとる以上、ただの屈折した全体主義にすぎない。真の共産主義革命を実現しよう、と、言うなら話は別だが、それなら最大の敵は、中国共産党であり、党幹部による利権独占の疑似資本主義を打倒し、中国人民を解放しないとならないわけだから。それは、中国やアメリカ相手に再び戦争したいです。と、言ってるのと同じで、ナンセンスだ。それでも、あえてその道を皆で進むのなら、そういう選択を選ぶなとは、言えない。独自の国民主権国家を目指す道は、困難だが、理想ではあるのだ。ただ、それは中国への帰属ではない。

最後にもう1つの道。全ての経済的関係の遮断、自給中立独立。鎖国に近いが伝統維持の自立の道だ。その道は無理強いはできない。何故なら貧しいところからの再興であり、放射線とは格闘せねばならないのだ。今の豊かな暮らしを望む者は、国外へ出るだろうし、それを拒むことはできない。国(というか人)の分断を前提とした道だ。実はぼくは右翼な部分が強く。そこらへんのわけ解んない国粋主義者とは一緒にしないでほしいが、天皇制の完全機関化により、この国の伝統と歴史を守るべきだと思っいる。そのためには、国民への正式な主権の禅譲を儀式として行うべきであり、現陛下には姫姓を与え、天皇の位を永久空位とすべきである。それが米国により中途半端に存続させられている、天皇陛下の状態を明確なもの(1国民に戻っていただき)国民の主権を、自らの判断で掴み取る、唯一の方法であり、「國返し」の儀礼だと思う。真の主権者となった、我々を、国家は無下には扱え無いはず。真の主権の獲得は、同時に国への責務の獲得でもあり、今までの様に、構造や体制に依存することは許されない。日本における主権は、他の民主国家や社会主義国家のそれとは大きく異なるのだ。今まで天皇家が司った、社禝の義務をも引き継ぐのだから。この主権は、民族、人種を問わず、この国を愛し、自らの意思で、この国の国籍を望む全ての人に与えられるべきだ。自分はその主権を望まぬ者への参政権は認めたくない。責任無き参政はあり得ないからだ。 自分は今まで無神論者だったけど、今程、精神性の重要さを感じたこともない。宗教への依存はすべきでないが、アイデンティティの復権を模索しないととは思う。それが、宗教と呼ばれるものかは解らないけど。個人的にはこの選択を選びたい。

このまま、なしくずしに汚染の拡大が広がれば、望むと望まざるとクロスロードへ向かうことになる気がする。

深淵まで降りて行こう。本音まで降りて行こう。日本という生き物は、実はもう「ローマ帝国の競技」から足を洗いたいのだ。自虐の果てまで降りねば気が済まぬほど、自ら(国土と自然)を傷つけたことを深層心理で悔いている気がする。おれたちはヨーロッパ人では無いから、後悔と自虐の念が強すぎるのだ。合理的にかたずけてしまえないのだ。2000年の歴史において、最悪の失態を母なる大地を失うことへの自責の念が強すぎるのだ。本当は皆で泣き出してしまいたいほどに。これだけは、西洋人には絶対理解できない心境だ。どこかで、こうなっててでも、この西洋文明から抜け出す糸口を無意識の内で、欲しているようなところさえあったのだ。我々は原発を盾に、徹底的に西洋文明を破壊しようとしているのかもしれない。ゴジラのように。申し訳ないがキリスト教徒の自然や生命のエネルギーと戦うような思想が、日本人には無いのだ。滅びを祭りと捉え、破壊をどこか受け入れてしまえる気質を持っている。山や川や海や穀物と自分との間に、合理的な境目を持てないのだ。西洋の思想から見ればナンセンス極まりないのかもしれない。でも、なんの違和感も無く、木々な流されれば、自らの身も流される。大地や田畑、海が犯されれば、自らの身体もその毒に晒してしまう。こういう感覚を本音で自らに感じない若者は、ためらうことなくこの国を棄て、アメリカ人になるべきだ。いや、むしろ、それが自然な世代もいるのかもしれない。何故なら、そんな世代の中では、とっくにThe End of Japanなはずだから。それは新世代の生き方かもしれない。

ただ、放射能。今回は相手がでかすぎる。十分すぎるほど葛藤してきたのに、深層の底の底まで押し殺して生きてきたのに、こんな顛末を向かえてしまうなら、子供達にその贄を押し付けることなどできない。もう堪える必要など無い。世界を相手に戦争までして、ここまで来たのだから、意地を張るにはリスクがでかすぎる。もう、自分をごまかすのはやめにしようかと思う。虚勢を張る日本政府と、日本企業が、まるでかつての大本営の様に、「希望」を偽り続けている。相手は人ではないから、勝ち負けなど無いのに、放射能に屈服することを認めたく無いのだ。我々は真実を隠され、本土玉砕に突入している。心を鬼にして若者や子供達と決別しないといけない限界が近づいているような気さえする。

自分の身近な人には、偶然にも福島出身者が多い。彼らは、毅然としている、その反面、彼らの口から知らされる身内の真実は、毅然と淡々と話すから、なおさらその重みを感じざるを得ない。福島の人の気質なのかもしれない。ある人は東京で自分のそれまで関わってきたものを全て投げ打って半年間、身内の救済に向かった、東京に帰って来た時、それまで得たものは全て失われていた。それでも、なんてこと無いように自力で再生へ向かう。ある人は一時期家族の避難を東京で受け入れる。でも、準備の無い所に、いきなり家族がまるまる、上京するというのは、それまでの生活の崩壊を余儀なくされる。妻の居場所は無く、短期間だけ、別々に暮らすことを余儀なくされていた。家族は福島へ戻ったらしいが、正直、多大なストレスが彼に残ったと思う。そして、現状を話す。保証の話など、まるで進んでいない現実。若い女性に向けられる、哀れみにも似た排他と差別の眼差し。保証の話がまとまらないと、脱出しようにも、どうにも動けない(自主避難者への保証は後手にまわる可能性があるからだ)。生き殺しである。今、福島200万の人々に必要なのは、復興や援助では無く、救助だ。しかも、彼らは放射線を厳密に気にしていたら、生活もままならないから、無視せざるえない状況にいると聞いた、それを知らされた時、あるいは、関東でストロンチウムだのプルトニウムだのの検出のニュースを知るたびに、毎日、想像を超える、もはや検査さえする気にもなれないほど、膨大な量の放射線にさらされている200万も人々を思うと、自分の国を憂うだの主義主張などが霞の様に消えていくのを感じた。もはや、この国は。国の方向だの、復興だのを奇麗ごとを並べて議論している余裕など、微塵も無くなってしまった。国益なんか全てかなぐり捨てて、アメリカ合衆国の属国になってもいいから、TPPを受入れ、米国の全面支援の元、今すぐに福島200万の人々を救助すべきだとさえ思ってしまう。

自分個人の思惑など、もはやどうでもいいところまで来てしまった。というまさにそれが、目論み通り、某国の手の内に乗ることだとしても、プライドを棄ててでも、現実的にはまずは、放射線への敗北を認め、東北1000万の人々を救助することが最優先に思える。屈辱でも受入ざるを得ない状況を作られてしまったのだ。でも、であるが、「道」は1つでは無いことに変わりは無い。どんなに回り道でも、この屈辱を受け入れ続けることはできないし、なしくずし的な日本政府のやり方は、卑劣極まりない。それは解った上で、あえて、それでも、東北1000万の人々を救助することが最優先に思う。まさに以前、懸念した、「卑劣な命の天秤の策」は完成されようとしているのかもしれない。気が狂いそうなほど屈辱的で無念だ。

話は逸れるが、最近の実験結果で、相対性理論が崩れそうな、光より早い物質の可能性がある話がある。自分はカンで、時間なんて人間の作った概念で、本当は無いんじゃないか?と思ってたのが、概念の最高峰の側から崩壊しはじめた。2日前と2000年前に差が無いという感触。今見える星は、実はすごい過去の姿と、言うけど、そうなのか?時間と距離の同時性すら、人の思考の限界にすぎない。おれは、あれは、今の姿だと思う。視覚の方が正しいかもしれないと思うのだ。また、自分は感触としては音の方が、光より速度が早いと思う。音の速度は到達を基準に量れないと思うのだ。より深度(というか密度?)のほうで速度が上がる。たとえば、凄いゆったりめのルーツチューンの方が、ダンスホールやスカより速度を感じる。個人的には。例えば、意味性の伝達を試みる時、視覚的速度のみに気をとられた、ファ二イな現代アートや広告より、昔の絵画の方が速度を感じる時がある。美術館にいけば一発でわかる。昔の絵画。アイキャツチは現代アートみたいに強く無いけど、一発で深淵に引き込まれる。どちらが、速度が速いのか?おれがキリスト教徒がやべえ!と思うのは、わけのわからん教会のやり方でも自虐的な西洋文明でも無くて、クラシック音楽だ。最速BPMのテクノの1000倍は速度を感じたりする。


 SFの世界では、すでに同時性の捉え方が少しふみこんでいる。時間を立体的な群でとらえる考え方で、ある一定の距離と時間の範囲内(過去と未来)を相互干渉を受ける範囲として(たとえば10万光年の360度距離と時間範囲は同時性を持つ)その群全体では時間が進む。みたいな。時間と距離と干渉に関して、自分は少し違った考えを持ってる。SFは速度に関して、物理的なテクノロジーの進化を基準にしているように思えてならない。つまり、移動能力におけるスピード(時間短縮)に偏重しすぎている。でも干渉力とはそうなのだろうか?たとえば、ダンスというのは、体と感性のシンクロだと思うのだけど、物理的な身体性とテクノロジーに偏重すると、どんどんドンシャリ(低音と高音)がより刺激性を強め(強調部のみの進化)、感性の方の速度感自体を歪めていく気がする。移動と干渉。あるいは、1万年前に100人がモンゴルからアラスカまで半年かけて移動したとする。その100人の与える干渉力と、1日でいったり来たりするような高速移動でモンゴルからアラスカを半年でのべ5000人がいったり来たりするのとでは、どちらの干渉力がより強力で速度があるのか?なにか「伝わる」ものがあるとして、どんなに高速移動でその表層と情報が飛び交っても、その「伝わる」ものの本質が欠如していたら、(あるいは受けてが、表層のみを取り入れ、本質を無意識で拒んでいたら)それは「伝わってない」のと同じなんじゃないだろうか?

 web上で言うのもなんだがネットによるコミュの促進てそんなに必要なのだろうか?と、思えるときがある。自分は性根が薄情なタイプなのか、最近あまり、必要を感じないのだ。そんなに多くの人とコミュニケートしないといけないのか?それができるなら、極端な話、伝達を軸に考えると、音楽や文学などはいらなくなってしまう様な気がする。コミュが深まれば、深まるほど、コミュ内の関係は均一化し、売り手と買い手なんて、下品な構造が見えて来たりして、一層、人は人の表現やなんかに興味を示さなくなる。既存の売り手が、その危惧から、黙すれば黙する程、気づかぬ内に市場との距離が生まれ、「伝えたいこと」ではなくて、「売りたいもの」と化してしまう。そうなればなるほど内容なんてどうでも良くなっていく。進めば進むほど誰でもよくなっていく。ものごとには「辿り着き方」というものがあるのだ。全てが掘り起こされて明るみに出る時代。それは、走馬灯の様に全て「なかったこと」に向かっていってるようにも見える。また、twitterなどの速度の早い情報と、それに関わる議論がみんなの意思の操作の無い体系ということだと、政治もまた、表現同様、必要無くなっていっている。政治というのは、操作と失敗を前提としないと何もできないからだ。失政は政治の本質なのだ。全てが明るみに出て、その速度が凄まじいあまり、結局何もできないとか、何も産まれないんじゃ、なんのための速度なのか?全ての幻想が打ち砕かれた時、その荒野にはいったい何が立ち上がってくるのか?少し怖い。急速に(少し異常なほどに)需要がへる音楽(CDや配信)や書籍(雑誌から文学に至まで)を見ると、それらがWebに集約されてるとは思えない。音楽や文学はメディアでは無いのに、商品として、ITメディアと競合してしまい、今や壊滅の1歩手前まで来ている。政治でも、化けの皮が剥がれた政界に、哲学の欠片もない不毛の荒野があるなら、誰がTwiiterの情報速度の全てをねじ伏せれるだけのバランスのとれた哲学センスを持って、政界に立てるのか?ユビキタスが人々の意思をもその構造体の基盤に取り込み、最後には「機能」だけがまるで、人類誕生から続く真実かのごとく立ち現れるなら、やはり、悪魔に魂を売り渡してでも、おれ個人は「人」という動物の一種族である道を選ぶ。それだけは譲れない。どんなに時代にそぐわなくても。



2011年9月29日木曜日

運命の分かれ道



営業で町へ出ると、今日も1日生きている人々がいる。どこへも逃げ隠れもできずに、きっと10年後にも、ここで生きているであろう人々がいる。この人達と生きて行こう。そう、思う。冷静に考えれば、メルトダウンの時点で、東日本は取り返しなんかつかないとこまで行ってる。真実なんか、最初からわかっている。反原発のデモの人や政府がどんなにあがいたところで、変らない。変えれるなら、それはもっとマクロなことを、ミクロなところからだ。芝居ががった体制の維持なんかを、役者を振り分けて、やってる場合じゃない。でもそれが、双方の「癒し」あるいは「遊び」もしくは「暇つぶし」になるなら、盛大にやったらいいんだ。そういうのが、人の心には必要だし、そうでもしてないと、押しつぶされてしまいそうになるんだろうから。ガン患者は、ガンの告知で精神的な打撃を受けるが、実際に発病(身体的な苦痛)が始まると、精神的な苦痛に気を取られている余裕など、無いと聞いた。それは、予想を遥かに上回る苦痛であり、健常者には想像だにできないと言われた。嫌な話だが、そこには「生きる」ということの本質が感じられた。「それでも、こういう事態(震災や原発事故)がおきると、人のために何かできないか?と思うんだよ。自分でも信じられない心境なんだけど」と末期ガンの進行を投薬で押さえ込んでる、町の老人は言っていた。それはきっと、苦痛を知ればこその想いかもしれない。

9月16日。マスタリングに子安に向かう途中、JR稲田堤の駅で南武線を待っている時に、1人の小柄で温厚そうなおじいさん、(片足を少しびっこ気味)が、電車を待つ人々に「これ、私が書いたんです。読んでみてください。」とこの文章の手紙を配っていた。以下。


自然は草木や動物色々な生物を育てて居ります 人も例外ではありません
しかし人は種を蒔いて世話をするから 自分が育てた様に想い 
自然は偶然だと思いがちでありますが自然は人生の師でもあります
原点に返って人生を考えてみたいと思います

宇宙の中に生きる存在として 
人とは何かと云えば自然の中に生きる一種の生きものに変わりはない
ならば自然の動きを見ることに依ってその心を知り
其の心に添うか逆らうかに依って運命の分かれ道があります
こうすれば運が向いて来ると云う希望を持って生きるならば
一層大きな希望と勇気が湧いて来ると思います

生きた草や木は花を咲かせ人にも楽しませてくれます
そして花が散れば美味しい味覚を枝が折れんばかりに成らせてくれます
これが生きた草や木であります
しかし同じ草や木でも縁の下のスカンポは花も咲かず実も成りません
それは外の暑さや寒さを受けないで生きているからであります
人生においてもつらい事から逃れる事だけでこれが幸せだと思って
人として生きる勇気を持たない人生は心も弱くそして花も咲かず
実も成らない様な運命がやって来ます

暑さ寒さに立ち向かい風雨にさらされて育った稲だけが豊かな実りの秋を迎えられます
又倉の中に積まれた米は何時までたっても一粒は一粒
増えることはありません
外に出して田畑に蒔けば何十倍にも成って還って来ます
目に見えない空気の中にも気体分子と云って火に成る分子と水に成る分子また氷になる分子と
色々な分子が含まれています ですから 
それに色々な方法を加える事に依って火にも水にも又氷にも成ると云われて居ります
私達の命にも心という目に見えないものがあり
其の中に怒ったり笑ったりする分子が含まれていて
その者のもつ思想に依ってそれなりの運命がやって来ます

人はみんな生きる為に努力をして居ります
しかし努力をしても間違った思想をもって努力しても無駄になります

人はつらい事があるとそこから逃れようとして
その為に更に苦しみの因を作ってゆくものであります
たとえば不況の苦しみから逃れようとしてアセリ
そしてストレスを溜めて病気の因を作ってゆく事も多いと思います

つらい時も笑顔で支え合いいたわり合って楽しく生きれば
自ずとストレスは消えて行きます
不況や病気は人生の登り坂です
勢を出して笑顔で立ち向かって行きたいものでございます
平静にして待って居ても好運はなかなかやって来ません
だからといって悪に従えば運命に逆らう事になります
笑顔で人生に立ち向かえば必ず好運はやって来ます

山本 たけし(仮名:本名書いてあったんですが伏せさせていただきます。)


※許可を取る手だてがありませんし、頂いたものなので
ここに掲載させていただくことにしました。



最初、なんかの宗教かな?と、思ったんだけど、読んでみて、そうで無いのはすぐ伝わりました。かなり高齢の方でしたが、いろんな方にさり気なくお渡ししていました。1日あけて、ふと、思ったんですが、いや違う、これこそが真の宗教だ!と思い直しました、ご本人は微塵もそんなつもりは無いんだろうけど、何か、自分にもできる事があれば、という想いなんでしょうけど。この、ご老人が宗教だとするならば、この日本にある新旧全ての宗教法人は全て、金利権搾取詐欺団体なんじゃないか?また、でもこの老人は一言も「神」存在を説いてるわけではありません。ましてや「道徳」も、あるいは「政治」も。この、老人の云うところの「思想」こそが真の思う想いであり、それこそが政治とやらの根幹だと感じました。自己保身や挙足取り、立ち回りで隙を見計らうような、全ての政党政治に死を!「死を」というのはちょい強すぎるかもしれないけど。最近は生死を濁しすぎるきらいもあるので。どういうことかと言うと。今や、政治家は政党の方針に縛られず、自己を見つめ直す時代なのかもしれない。と、思うのである。例えれば、自分は人として政治家を見るようになった。民主党はもはや支持しないが、菅直人前首相は今も支持できる。自民党は支持できないが、自民党の中には、まともな事を考える資質の人がいたりする。共産党や公明党のように「人」が見えてこない全体主義的な政党は、存在すら容認できない。つまりは、政党政治そのものが、雁字搦めな要素が強すぎて、考え直す必要を感じてしまう。さもありなん。自分が日頃思うことを、独自な言葉で素直に語る、この老人に、感謝と尊敬の念を強く感じたのでした。

2011年9月12日月曜日

俺マニフェスト

最近6~70年代のイギリスとかのSFとかを読んでいると、ただの科学空想でなくて、社会学空想だったり、経済学空想だったり、教育学空想だったり、とてもユニークなものが多く、刺激を受けます。その柔軟な視点から、昨今の非効率で平等さを欠く利権社会を生み出す最大の理由は、都市や生活構造に、利権を生み出す余地があり、情報伝達速度が飛躍的に進化したにも関わらず、旧態然とした、構造が残っていること。もう一つは戦後教育制度の不完全さに起因する社会に対する考え方の世代間ギャップが共通認識を欠落させ、この国においては、コミュニケーションの手段として、ゲゼル(利益偏重)が機能してしまっていること。なんじゃないかと思ってみた。それを是正するにあたり都市構造の再考から模索するのはユニークだし、未来像を描くという意味では、解り易く、楽しいことなんじゃないかと思いました。
今、一番話題に上る、脱原発は、実はイデオロギーとは何の関係もなく、世界規模で連携して取り組む問題なんじゃないか?特に連携すべきは、アメリカ国民とフランス国民なんじゃないか?と、考えてます。経年劣化を軸に今後想定される事故は多いと考えられるし、より早期の解決を必要とするのは、依存度の強いこの2国だからです。だからこそ、まずはこの国の人達にこそ、脱原発を視野に入れた、都市構造の再構築と、相互依存による経済の相乗崩壊を国際的に議論し、ある一定の制御と自給性への振り分けをきちんと再構築した、新たな世界市場の構築は、地球環境ならびに、資本主義経済の継続のためにも、国際的に早急に取り組むべきだと言いたい。
皮肉にもケーススタディとなった、我が国は、積極的に、新たなる都市構造のありかたを考えだし、その推進を世界に率先して行い、抑制と発展性のバランスのとれた、より高次元な経済国家として生まれ変わり、各国を牽引すべきです!電力は水道同様、公的管理にすべきだし、省庁再編を行う際は、先に述べた転換を第一の目的とし、踏まえるべきです。いち早く旧構造から脱却するためには、2011年版、日本列島改造(そこには里山の保持、治水の見直し、自給性の再構築、エネルギーの効率化がメイン)を考案しましょう。まさに新日本列島改造論を議論したいんです。

緑豊かな国土を取り戻せ!全ての原子力施設を恒久封印せよ!

日本列島改造せよ!w。

世界経済グローバリズムの主旨を利益依存(ゲゼル)から相互扶助へ転換せよ!

現在の豊かな暮らしを守るために!

例えば、情報伝達速度が飛躍的に進化した、現在において、道路、鉄道、などの交通網はより効率化(削減)できるはずです。国全体のエネルギーの効率化は都市構造全体の改造が必要です。1都市集中型の構造は現在のテクノロジーを踏まえると非効率だと思います。

おもしろいので、この俺マニフェストにそって、現代版「ユートピア」論。日本列島改造論を。サイエンスフィクションとして、楽しく考えていこうかな。

最近はこんなことばっか考えちゃうんです。

2011年9月11日日曜日

THIS HEAT 〜自分にとっての音をめざして

秋なのに残暑で蒸しかえる9月頭、盆に帰れなかった故郷、木更津に1泊2日で帰省。親父が待ち構えていた。311以降では初めての再会だからか?一晩中いろんな話をした。ちなみにうちの親父、昭和6年生まれ、目黒区の出身で、大東亜戦争をモロに東京で向かえた世代だ。敗戦当時15歳、価値観の大転換を知る世代だ。木更津の山間、新興住宅開発が進んでるとは言え、まだまだ里山面積の大きい田舎、ここじゃ虫が完全に主役。四面楚歌ならぬ四面虫歌。父親と寝ないで語り明かした末の結論。この国は滅びと誕生を恐れ、なくしくずしに腐ったまま延命しょうとしている、となった。養分になることを拒み、まるで国全体が処分不能の産業廃棄物になろうといている、まずはそれをなんとかせんとな。ということだ。その延命は滅びよりも緩慢で怠惰、だんだん、いっそうそれぞれが利己化し、ただ、ひたすら人は心を腐らせていく、不毛の荒野を進んでいる現状である。

話の主は。この国が一流だったのは「経済」だけだったという話にも及んだ。一流の経済ついては、様々な国が尊敬と感謝の気持ちがあるかもしれない、しかし、経済のみの付き合いというのは、ただ、「金」の付き合いがあるというのと、同じだ。それが失われれば、この国には何も残らない。政治をはじめ、全てが三流以下だ。という話だ。
また、管前首相に対する評価がおれと偶然にも同じだった、「いろいろ手を回して、人を動かす事は不得意で、政治家には向いてないけど、理系出身特有の、本質に最初に辿り着く感覚や(事態の掌握はできなかったが、首尾一貫原発を危惧し、東電の隠蔽体質について、最初に国営化すべきと発言した。)不慣れゆえ、慣れない周りへの気遣いなんかしていたけど、ポイントは外さなかった。」というところでは、意見が一致した。具体的には2つの点で、厚生大臣の頃となんら変らない合理的な判断を下した。(1)何はともあれ、メルトダウンの事後報告(タイムラグのあまりに大きいこと)を受けて、即刻、全国の原発を止める判断を下た。(2)実現はこれからとしても、脱原発でエネルギーをどうにか考える国の方向性を諸外国に示した。これら首相でなければできない行為だ。

では、野田内閣はどうだろうか?表向き、管の明言を踏襲すると言っているが、自分には緩やかな軌道修正内閣に見える。頭から細野発言、さらに、通産大臣の辞任劇。自分にはどうにも、野田内閣は芝居が過ぎる気がしている。福島復興という命題の既成事実化(その責を棚上げに本質をあえて濁すやり方)さらにつつづけて、メディアぐるみの如何にも見え透いた、既成事実化の補強(下手なことを言えない空気の演出)として、鉢呂発言と辞任劇。これらは全て隠れた命題、自公との大連立の布石に思えてならない。皮を切らせて、骨を守るというか。野田内閣には前内閣の失敗の教訓を生かし、的確かつ巧妙な策士(シナリオライター)がいるように感じる。既成事実の積み重ねで、我々の意思であるかのごとく事を進めるためのシナリオであり、一見マヌケに見える言動にもすべて裏のとれた意味を感じる。戦国時代の策士さながらの民衆操作だ。野田内閣に唯一期待があるとすれば、民主党の最初からの命題、今回も小声で公言してた、増税前に政府運営の経費削減(主は国家公務員削減を視野に入れた法改正と、省庁の運営見直し)簡単に言えば、公務員切りの法改正と省庁の再編は抱き合わせで同時、それで官僚の頭切りを行うこと。これも、内閣ができた冒頭の腑に落ちない展開を見ると、どうにも怪しい。親父に借りて今読んでる本に、『なぜ日本は没落するか』森島通夫(岩波現代文庫)に、こうある。「歴史はこのように進行する。将来像(シナリオ)は最初確率的なものとして与えられ、どのような像も、その将来時点に達するまでは危険を含んだものであるが、現実にその時点に達してしまうと、すべての危険は消え去り、現実は動かし難い確定したものとして、われわれに対して佇立している。」(森島通夫)炭取りがどこで回るのか、(シナリオと現実がクロスするX点)を、注視しないとならない。このままでは、元の木阿弥どころか、まるで最初から放射能があったかのごとく、それに対応する日々を迫られるという事態になりかねない。その中には、復興のために、原発再稼働という最悪のシナリオも含まれていないと、どうして言えようか?そのためには、反原発を福島復興の妨げになる刹那的な行為と断定し、一般世論を段階的脱原発という絵に描いた餅に収束させるシナリオが見えてくるのだ。高速道路の無料化と同じく、実現不能な立て看板にすり替える気ではないのか?

目線を少し大きく広げよう。放射能の残存は、この国の食料の自給を一層困難にすると思われる。もし、それにも大きな意図があるなら、の後、新手の奴隷船でもやって来るのだろうか?その船にIMFとかの旗が掲げてあったらぞっとする。先に書いたように、今後「経済」というカードを失った後、三流国となるこの国を、味方に(というか市場依存に)とどめておくためのおそろしいストーリーだとしたら?TPPもそれを睨んで打たれた施策なのか?とさえ勘ぐってしまう「市場」という名の奴隷国家でいろと。こう、書くとすぐ「それは某国の陰謀だ!」と話がひろがりがちだが、違う!あからさまな表が首謀とは限らないのだ。真実は一見敵対する国にもいる勢力との共謀して、この国の自給力を根絶やしといったところだろう。正直、相手は国家でなく、利権集合体だと思うのだ。国境は無い。そこには我が国から離脱しようとしている、我が国の企業体も含まれている。あるいは宗教団体も。でも、豊かなで便利な生活、「消費奴隷でいつづける」ことを望む人々も沢山いるのだろうから、いや、むしろ、それが主流だろうから、平和を乱す考えなのはおれの方なのかもしれない。でもそれは勘違いではないか?この国のゴールドカードの有効期限は間近なのに、みんなまだ使えると思い込んでいるのではないか?ゴールドカードが失われれば、こんな小さく、卑劣な国など、誰が顧みるものか!ただの荒んだゴミの島だ。そうして怠惰に命を貪りつづけ、国土が腐るままにお祭り騒ぎをつづけるのだろうか?これを書いているのは2011年9月11日、そう、あのアメリカ911テロから10年目だ。何故?世界貿易センタービルだったのか?その後それを教訓に利権集合体はより強固に巧みにスケープゴートを産み出し、先の震災においても想定外の天災(?)を誰独りとして謙虚に受け止められないような構造を作った。それぞれが、それぞれの思惑で利用こそすれ、次世代の体内を蝕む毒(地雷)だけが残される。これが、「俺たち」の意思なら、911,311にうわべの祈りなどできない、自分も含め、体半分は被害者ではなく、加害者だからなのだ。あの2つの悲劇は俺たちが招いている。これは、揺るがない。それでも「負け犬の遠吠えはやめろ。」と。「嫌なら這い上がれ」と。「こんな自由の世界を乱すな」と言われるのだろうか?おれ個人は土下座してでも乞いたい「~その螺旋を登るのは嫌です。~という選択肢をください。たいした力などありませんから、なんの影響力も無いですから。」と。







もし、問題の根にあるのが、原発を遥か通り越して、都市や生活のありかたに及ぶとなると、もう、トーマス・モアの「ユートピア」まで戻って、再考しないといけないのだろうか。世界の都市や生活は多少の違いはわれど、今や、基本構造は同じ(というか同じにすることで市場形成されてる)なのだ。それは、たとえば旧来のこの国(日本)の里山構造とは、最初から矛盾を内包している。日本は先んじていたが、その後、近現代都市化が進められ、世界の都市と生活形態がここまで統一されたのは、ここ30年の話だ。その構造は相互依存を前提としており、世界中の都市や生活は後戻りの困難なとこまで来てしまっている。日本において、震災及びそれ以降起きている問題は、等しく世界の都市構造や生活にも、そのまま起こりうる問題として、おれらの想像以上に動向が世界中の人々から注目されているんだと思う。ということは、都市構造と生活のどの部分を従来の流れのまま、世界構造との互換性のある部分(市場)として機能させ、どの部分を自立性を維持し自給力を高め、相乗崩壊を阻止できるよう変えていくか?主査選択になるのだろうか?そもそも制約された範囲での市場参加というのが可能なのか?かつては(というか30年くらい前までは)統一規格化されてないが故のなりゆきで、制約があった(それはそのまま、先進、途上、という都市のグレード格差みたいに言われたりもしていた)あるいは宗教、体制的な違いによる制約もあった。国境無き利権集合体みたいなものも、この構造が生み出してる側面もあるのか、あるいは意図的に構築されているのか?まあ、でも、いつの時代でも、その時代の構造の中で、そういう奴らは生まれている(というか辿り着いてしまっている)のかもしれないが、それではまるで永遠の階級闘争みたいな話か?疑問ばかりだ。なんでこんな話するかというと、「この螺旋は幻想です」というのは易いが、後頭部をプラグで繋がれたまま、夢見るように、野山を心のみで妄想するような、自己完結の仕方が腑に落ちないだけなのだ。未来は変えられる。すべては人が頭で考えだして作り上げたものにすぎない。それは、全くその通りなんだけど、自身の生活を濁り無く見つめることが、そのまま、世界全体を見つめることになっちゃう時代なのだ。10年前に2機のジェット機で、まさに、世界貿易センタービルに突っ込んだ奴や、こないだ銃殺された、オサマビンラディンと、「そこ」んとこ、話してみたかった。どう、考えているのか?あるいはいたのか?その、性急すぎる行動の裏にあるのは、単に宗教的心情なのか?どうなのか?そんな過激なテロ行為にいたる前に、1晩酒でも呑みながら、尋ねてみたかった。


いったい世界をどう考えていたのか?と。


最近はレゲエを聴きながら、おれの中にもJahがいればいいのに。と、真剣に思う。切実だ。でもおれの中にはいない。この国に生まれて、真剣にラスタファリアンに近づきたいと思うなら(ファッションや趣味、学問で無いのなら)、自分の中の「Jahの不在」からはじめないとならないんだなあ、と思う。おれの中にはいない。今後もいないと思う。なら、自身でおれに合った形で練り上げないとならない。あの小さな国、ジャマイカは信じられないほど荒んで、どんな国際社会からも相手にされないような貧相な国からは、人の心に力を与える無類の「音楽」が次々産み出されている。肉体(自給力)を奪われてなお、躍動する生命が迸る。この国(日本)の人々はレスポンスを返さず、ただ、それを消費している。それが歯がゆい。ただのSEXの前戯の秘薬みたいな、「欲望と自己正当化」の道具としてのみ、使っている。それは、そういう側面があってもいいのだが、あれは諸刃の剣であり、欠落している部分を完全に無視するのは、「音楽」として聴いてないのと同じだ。そう思うと、そこに向かって自ら音を放つ時、この国で、どんな理不尽な対応を受けても、受け入れられると思える。音楽だけでも、自給自足しなければ、と思うのだ。70年代、UK。スタジオで、上下左右を真撃なレゲエバンドにかこまれて、チャールズヘイワード率いるTHIS HEATが自分にとって真実の音を目指して音を奏でたように。

(以下ウィキペディアより抜粋)
※ディス・ヒート (This Heat) は男性3人によって構成されるイギリスのポストパンクバンドである。1976年にロンドンのブリクストンにて結成、1982年に解散した。

概要 [編集]

グループが結成された1976年から1stアルバムが発表された1979年にかけてのイギリスのミュージック・シーンは、アート・ロックやグラム・ロック等から、パンク・ロックやニュー・ウェイヴへの大きな転換期にあたる。そのような時代に、ディス・ヒートは、特定のジャンルに分類することが困難な独自の音楽を展開していた。その音楽は、しばしば孤高という言葉で形容される。
ディス・ヒートの音楽を特徴づけていたのは、チャールズ・ヘイワードの強靱なドラムスであったといえる。ディス・ヒートは1982年にギャレス・ウィリアムズの脱退に伴って崩壊し、メンバーは他のグループやソロで活動を続けた。チャールズ・ヘイワードは、キャンバーウェル・ナウを結成し数枚の作品をリリースした後、ソロ活動を行っている。ギャレス・ウィリアムズは、2002年に亡くなっている。

メンバー [編集]

  • チャールズ・ヘイワード - Charles Hayward (ドラムス等)
  • チャールズ・バレン - Charles Bullen (ギター等)
  • ギャレス・ウィリアムズ - Gareth Williams (ベース等)

作品 [編集]

  • This Heat (1978年 アルバム)
  • Health And Efficiency (1981年 12"シングル)
  • Deceit (1981年 アルバム)
  • This Heat with Mario Boyer Diekuuroh (1982年 Albert Marcoeurとの片面ずつのカセット)
  • Live In Krefeld (1986年 カセット)
  • The Peel Sessions (1988年 シングル)
  • Repeat (1993年 アルバム)
  • Made Available (1996年 アルバム)
  • Out of Cold Storage (2006年 6枚組ボックス・セット)

2011年9月2日金曜日

サイエンスフィクション

秋です。まず、冒頭にもの凄い発言。「最近のダンスホールレゲエ好きの若い男どもは、まるで、女の娘みたいだ、1人1人はまるで夢見る乙女。集団でつるみ、精神的に互いに牽制し合い、おまえら女子校生の仲良しグループか!つうか、肉体はいざシランが、心がバティマンだ。バティマンコミュ。申し訳ないが、バティマンはディスらしてもらいます。」てなことを書くと、なんか凄いマジに取られるんだろーなー。そんで、女子校生仲良しグループ的な攻撃を受けるわけです。今の発言、特定の誰をも指していません。言うなれば、空想かもしれない。実地検証に元ずく空想だから、サイエンスフィクションだ。バティマンが駄目なら平和な箱入り娘。まさにハーコーインザギャルゾンビ。こういう空想の自由が蝕まれるのが、女子校生仲良しグループだ。
「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。こうなると、もうわけがわかんない。「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、こんな言い方はしません。話が逸れましたが、本題。


サイエンスフィクション。空想科学物語のことだ。去年の話題だけど、車椅子の理論物理学者スティーブン・ホーキング氏が著作、「グランドデザイン」で「宇宙誕生に神は必要無い」と発言した事に対し、ローマ法王ベネティクト16世は昨年、10月28日の法王庁科学アカデミーでの講演で、間接的な反論を展開。「宇宙は神の創造物である」ことを明言した。話の流れとしては、科学の役割は神の存在を明らかにすることにもあると指摘。「科学者は世界を創造しているわけではなく、それについて学び、まねようとしている」とした。 さらに、科学者の役割は普遍の法則を創造することではなく観察することにあると強調、そこから導き出される結論として「人間ではない全能の知恵が存在し、それが世界を支えていることを認めざるを得ない」一方で科学についての理解も示し、科学と科学者の功績をたたえた。緩やかな論争というか対決だけど、最初に賽を振ったのはホーキング博士。「神」という言葉を著作に持ち出した時点からややこしくなった。ホーキング博士が「神」を語るということは、もう、それ自体が「空想」の領域だからだ。彼は理論物理学者だから、神を語る部分は否定であれ、肯定であれ、サイエンスフィクションということになる。彼の立場からすれば、である。彼が「無い」というのは空想上「無い」のであり、仮に「いる」と言ったって空想上「いる」のだ。しかし、考えの立場が違えばそうはとらえられない。教会にとっては「神」は唯一の現実であり、科学者による、宇宙や現象の概念化、名称化こそが「空想」であるからだ。
でもアジア人である自分が見ると、見方はまた変わってくる。「人間ではない全能の知恵が存在し、 それが世界を支えていることを認めざるを得ない」(ローマ法王)でも全能で全知であるというこは、無能で無垢であるというのと同じ様な気がする。始まりと終わりの間に時間を作り、概念を置くことはナンセンスなのかもしれない。アジア人の自分には。神の存在を立証する行為は、神の不在を認めるのと同じ行為に思える。人間は言葉や概念を形にするとき、「始まり」を創り、「終わり」を創り、「時間」を創り、「善悪」を作った。でもそれら全ては言い方にすぎない。その結果、理屈抜きで明らかな無様まで、「善の様(おれは悪く無い)」と言える構造ができてしまう。合法の「法」が利用され、酷い結果を生む場合などは、まさに最たるものだ。「恩着せがましい」とはよくいったものだ、恩は売り買いするもんではないから、たとえば、この言い分、最近の原発事故について「皆様の生活を支えてきた電力会社はなにも『悪』くありません。(あるいは悪意はありません)想定外の天災なんです。」ええ、悪いとは思いません。でも、善いとも思いません。だって、そもそも、自分が無知、無垢の赤子で生まれて、このかた、その「皆様の生活」とやらを選択する権利も、機会もはじめから持たされて無いのであるから。「宇宙誕生に神が必要ない」というホーキングさんに、ローマ法王はこう言うべきだったのだ、「神は自らをお創りにはなられません」。そしたらホーキングさんはこう返すかもしれん「それでは法王は、宇宙は神だ。とおっしゃるんですね?」ローマ法王は静かに微笑みをたたえながら「いえ、そうではありません、あなた方が宇宙を『宇宙である』としているように、わたしたちは神を『神である』としているだけですよ。」←このやりとりは自分の空想ですが。


自分が危惧を感じるのはローマ法王ベネディクト16世がローマ法王庁科学アカデミーでの講演で「宇宙は神の創造物である」と明言したことそのものにである。神が絶対か絶対でないか、科学が万能か万能で無いか、はどうでもいい。この言い切りは、2000年に及ぶキリスト教徒の深淵なる心の対話を全て危うくするような傲慢さを秘めている。さらに、「科学の役割は神の存在を明らかにすることにもある」「科学者は世界を創造しているわけではなく、 それについて学び、まねようとしている」という発言には、アジア人として西洋文明そのものに危惧と終焉の示唆を感じざるを得ない。 キリスト教のありかた、科学のありかたに、あまりに哲学的配慮に欠けている。この、混同を押し進めると、ローマ法王自ら、神殺しをやる結果になりかねない。これこそ、本末転倒だ。「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。とはこのことで、「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、ホーキング博士、あんな言い方はしません。
SFと言えばサンリオSF文庫。
絶版文庫Lineなんですが、大好きで集めてます。




2011年8月30日火曜日

絶望を見つめる。





また首相が変わった。見ていて思ったのが、政治家には、絶望や危機の喚起をする人が一切いないということだ、こんな危機的状態なのにだ。政治家がよく言う、日本語において「長期的視野で~」というのは「~する気はない」という意味。これが日本語。最悪である。なにか、いい事ずくめでどうにかしようとする者は、「絶望を見つめる」努力を放棄している。それは何か違う目的と、守るべき別のなにかがあるからだ。電力に関する抜本的な政策の打ち出しは急務であり、ここで舵を切り損なうとこの国は確実に破滅する。今の政治家もまた、ゲゼル的コミュニティ(自己利益優先社会の従属者)であり『政策の中身』に辿り着こう(あるいは思考しよう)という意思が皆無である事が明るみにでた。復興などできるものか!ノーアイデア、あるいは中身の無い者に中身を持てというのはナンセンスなのかも知れないけど。無いものは無いのだから、滅びるにまかせ、崖っぷちで混沌を向かえ、想像だにしない臥竜に身を任せ、なし崩し的に変わっていくしか無いのかなあ。まさに空洞だ。そのリスクは誰が負うのか?おそらくは合法的な殺戮が始まるのであろう、民意という言葉の幻想を逆手に取り、貧しき者は知らず、さらにサバルタンに追い込まれ(黙して語れぬ存在)黙した屍の上に、コミュの操作者達のみが平然と生延びる構造が、巧妙に形成されるのか?思考する自由と意思の選択の自由すら奪われるのである。生存を天秤にかけさせられるというのはそういう事だ。それがサバルタンを産み出すのだと思う。「生きて行くためには黙すしかない」と思わざるをえない構造を意図的に作り出すということだ。皆に「余裕」の有る今ならまだ間に合うと思う。おれの懸念する構造ができあがってからでは、世代的な封殺が完成しまってからでは、完全にサバルタンと化してしまってからでは、思考を、言葉を取り戻すのは、より困難になる気がする。想像を絶する年月を必要とするはずだ。奴隷創造の時代である。ローマ帝国は豊穣の時を終え、長く緩慢な滅びの時を迎えている。滅びは死同様に過程なのだ。豊穣に慣れたおれらがそんなものを受け入れる準備ができているわけがない。今日は「希望」と両輪の一方、「絶望」について書きました。すみませんでした。
死が瞬間では無く過程だとして、それが生きることだとするならば、絶望は常に希望を産み出す。滅びもまた、過程ならば、それは、誕生させつづける事そのものなんじゃないか、滅びの過程を終え、何か誕生するんじゃない、滅びの過程こそが誕生の土壌であり養分なのだ。生命には意思だけが有るんだと思う。人はそこに思考が加わる。「絶望を見つめる」ことをせずして、「希望」の選択などできるはずがない。

2011年8月4日木曜日

価値あるものとは何か。

昨日、電気止める人が家に来た。電気の送電停止業務は個人委託で名刺も持ってない。サービズの現場の矢面には決して立たない東京電力。こんなご時世、一番辛辣な対応を受ける業務は、名刺すらない、企業でなんの社会的安全の保証もしてない人々にやらせているんだなあと思った。実際に原発直してるのもそういう人達なんだろうと思われる。電力王宮直属の奴隷だ。 普通、優良な企業の幹部の人達は、必ずキャリアの中で末端業務に携わった経験を持つ。企業とは名ばかりの、電力王権にはそんなものは無い。科挙制度(学歴偏差)というのは、貧困の格差、差別を巧みに覆い隠す制度だ。高学歴者の親がどれだけ金をつぎ込んでるか?という話だ。実際の能力とはなんの関係もない。見えにくいだけで、その実、室町時代よりも酷い階級制度が敷かれていることに、気づかないとまずいのかもしれない。自分も彼ら同様にネオ・サバルタンに属する者として、心に刃を持って、言葉を紡ぎださねばならない。蟹工船なんて甘い事態じゃない。 都市に巣くうネオ・サバルタンは発言すべきなのだ、黙して語らない状態になっているが故にサバルタンと化しているとしてもだ。
企業体への所属を拒まれ契約者として浮遊させられている、日本経済の戦奴たちは反逆の支度を整えるべきだ。我々は奴隷であり、究極状態においては移動もままならず、「死」の矢面に立たされるモルモットであることを自覚せねばならない。見せかけの意図的な「向上心」に強制され、実力主義の幻影を信じ込まされ、暗黙に金の亡者に仕立て上げられ、あるはずもない明日を夢見るのを即刻やめるbきだ。メディアの価値観に洗脳されてはいけない。フリーターに家は買えない。簡単な操作だ。目を覚ませ!若者よ、と言いたい。未来は保証されてない!誰も保証なぞしていない。黙して語らぬ俺ら中年の世代を代表してあえて言わせてもらう。有象無象に社会に埋もれるかつての若者は刃を奪われ、サバルタンと化しひたすら黙している。それが、若者の未来だ。それを受け入れるか否かは自分次第だ。電気の送電停止業務は個人委託の人は自分と同世代だと思われる40絡みの男だった。彼らと自分の間には何の差異もない。彼がどんな人生を歩んで来たかは、黙して語らぬが、その目は雄弁に己を語っていた。


エネルギーに更に「価値」をつけてはダメだと思う。発電力のある者と被発電(電力消費しかできない)者に新たなる格差を生むだけだと思う。電気は道路同様、あって当たり前でいいのだ!公共の福祉である。砂漠のオアシスの町では、電気と水とではどちらの価値が高いと思う? アフリカの乾燥地帯では?この国では電気は価値を高めすぎている。あげく、水、環境、食物を粗末に扱う。電気の価値が下がれば、原発の価値は下がる。発電の価値が下がれば、電力会社に利権は生まれない。おれらは、豊かな水と大地にもっと感謝の意と価値を認めるべきであって、電気などにではない。前にも言ったけど、タダにすべきだ。一般家庭の1日の使用電力量平均が13キロワット、年間で約4800キロワットを基礎電力量とし、無料にする。(1人暮らしから、1世帯する)全ての電力会社を国営とし、電力省を設立する。基本無料分は納税で賄う。基礎量以上、事業電力は徴収する。目先の権威構造の打倒を目指すのではなく、根本原因を含める構造の変革を目指すべきだと思う。土俵を作るところから考えなければ「何故、電力が利権になるのか?」という根源的(ものすごくシンプル)な問いは解消されない。独占のシステムを打ち破るのが目的では無く、独占の根本原因を変えてしまうことが重要だからである。一般道路の補修維持も本当はタダではない。自治体が莫大な予算をあてて維持している、土木に関して善し悪しはあれど、自治体主導の需要(雇用)を産み出している。自治体の事業として、利益や雇用を生むのであれば、発電もまた、納税でやりくりできる構造をなんとか編み出すことは、地域経済の活性化に具体的に繋がるはず。重要なのは、道路の使用が売り買いできる存在で無いように、電気もまた、売り買いできる存在であってはならない、と、定義することなのだ。実際には発電にはお金はかかるだろう、そういう事を言ってるんでは無い、「電気が市場価値を持った商品(売り買いできる物である)」ということが、利権化する根本原因なのだ。エネルギーを誰もが作れることに関しては異論は無いし素晴らしいことだと思う。自分は段階的であれ、「価値」に対して「価値」で抗うのは解決にならない。し、リスクを孕んでいると、思うだけなのだ。電気の価値を下げる。これ、誰にでもできることで、電気代を払うたびに、「このお金(価値)が空気を汚し、水を汚している」と思うこと。そして、本来これは無償で与えられるべき権利なのに「搾取されている」と思いつづけること。人が物の価値を定めます。皆がそう思うことは、現実に価値を変えると思う。

太陽あびてスクスク育ってる植物から、エネルギー代は取れない。
おれらはそういう愚かなことをしている。

日米原子力協定 http://p.tl/X-0X は核不拡散政と原子力平和利用が前提の条約であり、事実上、原子力平和利用が困難である見通しから、先の首相発言があるのだと思う。対米的に表向きは何の問題も無く、脱原発を推進できるということだ。国の利権構造による弊害と、混濁すると危険な事象でもあって、協定上、原子力に関する安全確保は米国と共同で研究されているわけで、謀らずも、事実上、我が国がモルモットみたいな状態になったりしているのは、東京電力と国の対応の問題であり、利権構造の維持に関わる弊害であることを認識すべきだ。米国は棚からボタ餅であるだけで、そいうのは歴史的に見ても確実に情報を逃さない国ではあるが、その検証は不確定要素を含んでいる。アメリカもまた「価値」により大きくその動向を左右される国だからだ。あの国はそれまで意固地になって死守してきた利権でも、「価値」が失われればあっさり見限る。 良くも悪くも、それが資本主義経済の根幹だからだ。金にならないと思ったら、平気で手を翻す可能性だって残されているのだ。現在、ぶっちゃけ最悪の状況がアメリカを筆頭とする自由主義、資本主義経済を腐らせている、でも、唯一、残されたこの価値観の上下が、市場原理の根本にある以上、「価値」を見定める、あるいは決めるのは、個人個人自身であることをあらためて強く思った。有るか無いか決めるは我々なのだ。経済を活性化し、未来に向けて本気で前進する気があるんなら、個人使用の電気と通信(ネットなど)は無料化する道しか無い。全てのユビキタス利権を国民が握り、自由に使う一方、森林を含めた、水の循環の回復を国務とし、農作物豊かな国土を取り戻すべきだと思う。悪い未来じゃ無いと思うけどな。

 最近氾濫した信濃川は日本最長最大の河川で、日本列島の動脈(命綱)である。いつから我々は治水もまともにできない下等な種族になったか。。原発よか問題だ。海もまた、治水。治水の基本を我々が覚えていれば、あんなところに原発など建てない。また、全部無くすにせよ、核燃料の管理にあたり、治水の基本を思い出せないなら、放射線など今後いくらでもダダ漏れになる事態を繰り返えすはずだ。何故河が氾濫するか。水は勝手に生まれてくるものでなく、森林の管理で産み出される。何故、予想外の津波が来るのか?堤防だけでない、海岸線の治水構造を破壊して不用意に埋め立てをすれば、水位に大きな影響がでる。オランダの広大運河は。陸地全体が海抜が海より低く、それを生水で押さえ込むために、ある。風車でもって絶えず治水をしているのだ。すごい高度な構造。たとえば、江戸幕府の治水技術は当時でも世界最高の技術を誇っていた。唯一の貿易国オランダの技術者が驚愕するほどの技術だ。当時それはかの国に多大な影響を与えていたはずである。教科書には触れられてないことの1つだ。当時、オランダはものすごい先進国として日本を相手にしていたのだ。明治の開国以降、はじめはその先進性を維持していたものの、どんどん後進国に成り下がっている事実を認めねばならない。我々は退化している。同時にその事実を知ることは、ぼくに勇気と希望を与える。専門家では無いから妄想のようなつぶやきだけど、国土の浄化には、治水の考えを取り入れれば、最速の浄化ができるかもしれない。風船爆弾ではないけど、何か地の利や水の循環をうまく利用した浄化方法があるような気がする。 全く以外な、かつ、日本人独自の発想で。かつてくまなく張り巡らされた水路で、江戸の町は冷却されてて、夏涼しかった。全ての建物は風通しを計算されて建てられていた。これを高度な技術という。偶然にも、森林の伐採が根本原因で氾濫する、日本最大河川の源流で、まさにその真っただ中でで、その伐採で開かれた平地を足で汚泥と化しながら、踊り狂う人々がいた。自分には集団発狂してるようにしか見えない。
「歪(いびつ)」について考える。元々我々は自然に、自然エネルギーを取り込んで生きているのに、電気やユビキタスで文明の動力を自然エネルギーでまかなうことを目指すのは、究極の遠回りな気がする。本来ある姿を目指し、本来ある姿からどんどん遠くへ行こうとしているような歪さを感じる。完璧で理想の文明は、究極の不完全な文明なんではないのか?良さげに見えて、微妙に失いつつ有る「謙虚さ」を取り戻すことはもうできないのか?未来において、「昔は放射能だの、原発だので大騒ぎしてて、まだかわいいもんだったよなー」なんてならなければ良いのだが。「謙虚さ」は同時に「誇り高さ」であり、それを同時に失いつつある気がしてならない。「価値あるもの」とは何なのだろうか?